山本麟太郎
フリーライター
勝海舟【1】は、
幕末【2】の最重要人物の一人だ。
幕末の日本史はわかりにくい。
対立構図が目まぐるしく変わるからだ。
最終的に薩摩藩と長州藩が手を結び、天皇・公家を味方につけ、江戸幕府を倒し、明治維新で日本社会は一変する。その江戸時代から明治へという大きな流れの中の重要な局面に、幕臣(徳川家の臣下)・勝海舟は登場する。
勝海舟、幼名・通称・勝麟太郎の人となりをざっと紹介しよう。
1823年に江戸本所で生まれ、剣術、禅、山鹿流兵法に加え、蘭学と西洋兵学も学ぶ。1855年「長崎海軍伝習所」に入門。オランダ語が堪能だったためオランダ人教官と伝習生の連絡役も務めた。
1860年日米修好通商条約批准のため遣米使節団が米船ポーハタン号で渡米する際、日本の軍艦・咸臨丸も随行。海舟も教授方頭取という位置づけで乗船、渡米した。
帰国後、一時海軍とは別の役目に就くが1862年軍艦奉行並に就任。この年の年末頃より土佐藩の脱藩浪人・
坂本龍馬【3】と交流する。政局が目まぐるしく変動する中、罷免されて一旦は表舞台から姿を消す。
1868年
戊辰戦争【4】が始まり官軍の東征が始まると、海軍奉行並に復帰、続いて陸軍総裁に任じられる。官軍による江戸城総攻撃の直前、海舟は官軍の征討大総督府参謀・
西郷隆盛【5】と会談。江戸城無血開城を実現し、江戸の市民の命と家財を戦火から救った。
明治維新後は、旧幕臣の代表の一人として、外務、兵部、参議、海軍卿、元老院技議官、枢密顧問官を歴任。時代の大転換の中、旧幕府の人材のフォローなどにも力を注いだ。
晩年は、赤坂氷川の自宅で明治政府から依頼された『海軍歴史』など多数の書物の口述筆記を行った。1899年、75歳で没。
勝海舟の名を知る人が持つイメージの多くは、蘭学に明るく開明的で世界情勢に詳しい、咸臨丸で太平洋を横断して渡米、坂本龍馬が師と仰いでいた、西郷隆盛と会談して江戸城無血開城を実現した、といったあたりであろう。
さて、海舟が活躍する「幕末」は、映像作品の題材としては、「戦国時代」と並んで比較的よく取り上げられる日本史の人気時代のひとつである。
しかしその中心は、坂本龍馬であり、西郷隆盛であり、新撰組であろう。その中にあって勝海舟は、あるいは龍馬の師として、あるいは新撰組の暴挙を制する敵として、幕末の物語の重要な「脇役」として幾度となく映像作品に登場しているのであった。
練馬との関わりで言えば、現在
「石神井公園ふるさと文化館」【6】の館長を務める漫画家・
村上もとか【7】の代表作
『JIN -仁-』【8】のドラマ化作品で小日向文世が演じた勝海舟が印象深い。大局を見つめ、「何が重要か」を見通し、抜群のコミュニケーション力で周囲を動かす「切れ者」ぶりを見事に表現していた。
今年(2024年)1月に公開された本サイトの「ねりま映画サロン」に登場し、また先日急な訃報で世を驚かせた西田敏行もTBS大型時代劇スペシャル
『竜馬がゆく』(1997)【9】で上川隆也扮する龍馬の大事な師である海舟を演じていた。
NHKの大河ドラマには勝海舟の登場作品が多い。
『西郷どん』(2018)【10】では遠藤憲一が、
『八重の桜』(2013)【11】では生瀬勝久が、
『龍馬伝』(2010)【12】では武田鉄矢が、
『篤姫』(2008)【13】では北大路欣也が、
『新選組!』(2004)【14】では野田秀樹が、
『徳川慶喜』(1998)【15】では阪東八十助が、
『翔ぶが如く』(1990)【16】では林隆三がそれぞれ勝海舟を演じている。中でも『八重の桜』の生瀬勝久の海舟は、人を魅了する大きさと親しみやすさ、理想に燃える情熱と先手を打つ政治能力の高さを兼ね備えた魅力的な人物像となっていた。
日本テレビが年末時代劇スペシャルをやっていたころの作品にもたびたび登場。
『田原坂』(1987)【17】では萬屋錦之助が、
『五稜郭』(1988)【18】では津川雅彦が演じた。
そして、中には珍しく勝海舟が主役の作品もある。
子母澤寛の原作をベースにした『父子鷹』は勝海舟の父・勝小吉と勝麟太郎親子が主役。
1994年のテレビシリーズ【19】では市川染五郎が、
1956年の映画版【20】では若き北大路欣也が演じている。
NHK大河ドラマにも
『勝海舟』(1974)【21】という作品があった。倉本聰脚本、渡哲也主演という意欲的な企画だったが、渡哲也が病気のため9話で途中降板、その後を松方弘樹が引き継いだ。また日本テレビの年末時代劇スペシャルでも
『勝海舟』(1990)【22】が制作された。奇しくもこの作品でも主演の田村正和が体調不良で降板、別の役で出演していた弟の田村亮が代役となり物語の中盤部分だけ担当することになった。
そして、実は勝海舟もまた練馬にゆかりの人物と言えるのだった。
練馬区石神井台にある古刹・
三宝寺【23】。
その入り口にある「長屋門」は、海舟晩年の赤坂氷川の居宅の門を移設してきたものなのである。(練馬区旭町にあった「兎月園(とげつえん)」というレジャー施設に移設されていたものを再移設)
三宝寺の長屋門をじっと眺めたり、手を触れたりしてみると、何かを感じられるかもしれない。
それは、幕末の価値の混乱の中、周囲からどう言われようと、自分の目線で行く末を見据えて確かに立ち回った、勝海舟の孤高の精神なのかも知れない。
「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」
勝海舟の残した言葉だ。