氷川竜介
明治大学大学院特任教授/アニメ特撮研究家
テレビアニメ
『宇宙戦艦ヤマト』【1】は、およそ半世紀前の1974年10月6日、練馬区桜台から発進しました。後の1977年に劇場映画化されて大ヒット、アニメブーム到来とマスコミに書かれ、アニメ文化を子ども向けから大きく脱皮させた記念碑的作品です。
今回は放送中に制作現場へ見学に行った自分の体験をもとに、その様子をお伝えしたいと思います。
本放送当時は
『日本沈没』【2】、
『ノストラダムスの大予言』【3】と2大ベストセラーとオイルショックの影響で「終末ブーム」真っ盛りでした。『ヤマト』もその強い影響下にあります。宇宙からの侵略者による遊星爆弾の爆撃で地球は海も蒸発した焦土となり、放射能汚染で滅亡まであと1年へと追いこまれた……という状況がその反映です。
宇宙戦艦ヤマトが14万8千光年という気の遠くなるような宇宙の彼方イスカンダル星まで、救済のための装置を取りにいく――それがメインストーリーです。光速を超えるワープ航法でも、ギリギリ滅亡前に戻れるかどうか。歴戦の勇士・沖田十三艦長が導く乗組員は若者中心です(働き盛りの多くはすでに戦闘で死んでいる)。人類未到の宇宙空間には敵だけではなく、さまざまな脅威が待ち受ける。苦難の道を未熟な若者たちがなんとかして突破していく様子は、「終末ブーム」を跳ね返そうという気概に満ちていました。
物語に強い説得力をあたえていたのが、画期的にリアルなSFメカと戦闘描写でした。テレビアニメは毎週の放送を回し、大勢で制作するため、省略を多くした記号で効率化を考えるのが常でした。『ヤマト』はその点が逆張りなのです。ヤマト本体のビジュアルを見れば、パーツの多さと立体構造の複雑さがすぐ分かるでしょう。
機構と操作の段取りを緻密に描くことで、「巨大なメカニズム」を描写しています。甲板にある主砲の下には巨大なギアがあり、三連装砲塔は個別に動き、艦橋では発射角をモニター経由で制御する。波動砲はエンジンの出力ルートを切り換えて艦首に回してエネルギーを圧縮する仕組みで、そのために艦内の電灯を落とし、事故のないよう点呼が3分近く続いた後、ターゲットスコープで照準をつけてからようやく発射できる仕組みです。
こうした「すごい作品」はどうやって作られているのか。当時、都立高校2年生だった自分は、友人2名を誘ってスタジオ見学することにしました。いろんな会社に電話をして、ものすごい苦労をしてようやく
「オフィス・アカデミー」【4】の場所を突きとめましたが、「桜台駅から徒歩数分、ピーターパンというパン屋さんの上」と聞いて首をひねったことをよく覚えています。その都立高校は中野・杉並・練馬の学校群だったので、そこでパンを買っているという同級生もいるぐらい身近な場所だったのですが、「なぜ雑居ビル?」というのが疑問の本質です。
アニメは専門の大会社が作るもの。そう思いこんでいたのでした。後々分かるのですが、『ヤマト』は
西崎義展プロデューサー【5】が自己資金で立ち上げたオリジナル企画で、会社もインディーズ(独立系)だったのです。それゆえ制作(フィルムメイキング)もこの作品だけのプロジェクト制で、貸しビルを使ってそこに人を集め、終わったら解散する形式でした。後々、多くの作品が同じように作られていく、その初期のものです。
ビルの4階に行くよう言われ、そこが単なるマンションの2DKだったのも驚愕しました。正面が事務関係の制作部、入り口左手がチーフディレクターの
石黒昇さん【6】、助監督の
棚橋一徳さん【7】、
三家本泰美さん【8】のいる演出部、右手のキッチンは美術監督の
槻間八郎さん【9】が陣取る美術部でした(絵の具を洗う水周りがあるからでしょう)。
押し入れにギッシリ詰まった背景画、特に第一艦橋と地球防衛軍司令部は細かいメーターやスリット、レバーなどがギッシリと描きこまれ、圧倒されました。当時のテレビは低解像度なのに、手加減なしの密度なのです。さらにショックだったのはラックに積み上がった大量の封筒でした。それが「設定」を見た初体験です。アニメ雑誌など皆無の時代ですから、大勢が作業するため絵柄を合わせたり芝居をする設計図としての「設定」があること自体、知らなかったのです。
筆者が目撃したその原版は、放送50周年を迎えた2024年から
「庵野秀明 企画・プロデュース/放送50周年記念宇宙戦艦ヤマト 全記録展」として全国巡回中です(7月19日より大阪)。それを見た方なら分かると思いますが、驚くべき「圧」を放っているのです。通常の設定は絵柄を合わせる最低限の線しかありませんが、『ヤマト』の場合は背後にあるSF的な根拠、「なぜこの形をしているのか(異星人だから持ち方の違う銃を使うなど)」等々、ワンカットで消えるアイテムにも「実在感」が与えられているからです。
「現場監督」と名乗った石黒昇さんも、映像のメイキングを親切に教えてくれました。重量感豊かにゆっくり動かすのは「アニメーションの自殺行為」だが、それに挑んでいること。ビームや爆発などは「エフェクトアニメーション」の考え方を適用し、宇宙空間の無重力を意識していること。中でも驚いたのは特撮作品の合成で使われる
オプチカルプリンター【10】を使い、普通の撮影台では不可能な映像を作っていることです。
こうした情報を短時間で頭に詰めこまれた高校2年の筆者は、世界がガラリと塗り変わるような感覚に見舞われました。「すごい作品にはすごくなる理由がある」と知ってしまったからです。だったら、その理由とは何かを徹底的に追及してみたい。これが以後半世紀、「研究」を重視していく自分の原動力になった原点だと思っています。
その雑居ビルは2階が作画ルーム(通称・社内班)、3階が撮出し(撮影素材を組んで撮影会社に指示する)ルームでした。そして1975年3月の放送終了が見えると次第に人が少なくなっていきます。原版はともかく、作業用のコピーや素材はすべて破棄すると聞いたので、設定制作の方に頼みこんで集めていただき、引き取らせていただきました。いずれ美術館に収めて公的なものとすべき芸術性の高い文化財が、棄てられてはいけないと思った。まずは保存だと未熟な頭で考えたからです。半世紀が過ぎ、
特定非営利活動法人 アニメ特撮アーカイブ機構(ATAC)【11】の設立を経て、ようやく国家的な保全の道が定まりつつあります。保存を試みて良かったと思いますが、それは「ヤマトの物語」が伝えている「たとえ滅亡が目前に迫ったたとしても、何か行動を起こせばそれを跳ね返すことができる」という精神性の反映だったのかと、今にして思います。
これはアニメを「終わったら消えていく」単なる娯楽や消費財から解き放ち、日本が誇るべき「文化」として確立し、末永く後世に伝えていく歩みの一部だと考えています。これからも果てしなく続いていく大きな運動、その連鎖の第一歩は、練馬区桜台から始まったのです。この事実は、この機会に強調しておきたいことです。