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【レポート記事】~区ゆかりの漫画家が登壇~
「ねりま漫画サロンinゆめりあホール」を開催
8月5日(土)、6日(日)の2日間にわたって練馬区の大泉学園ゆめりあホールにて「ねりま漫画サロンinゆめりあホール」が開催された。主催は練馬区で、今回が初めての試みである。イベント内容はトークショー、練馬区にゆかりある漫画家の複製原画の展示、ワークショップ、似顔絵コーナーと多岐にわたり、猛暑日にもかかわらず大勢の観客が同ホールに足を運んだ。
トークショーは各1時間で、初日の「
ちばてつや【1】×
村上もとか【2】」では声優・
村上紀生【3】(父は村上もとか)が、2日目の「
新谷かおる【4】×
武論尊【5】」では俳優・
新谷摩乃【6】(父は新谷かおる)が司会を務めた。家族ならではの踏み込んだ質問に登壇者がたじろぐ一面もあり、興味深い話が次々と披露されることに。登壇者の4名はそれぞれ練馬区での思い出や創作秘話を語り、登壇者同士の丁々発止のやりとりに客席は大盛りあがり。両日とも大にぎわいで、次回以降の開催にも期待が高まる。
ちばてつや先生×村上もとか先生(5日)
—— 漫画家として活動することになったきっかけを教えてください。
ちば:私は満州からの引揚げ者なんですけど、われわれ一家は途中で他の人たちとはぐれてしまったんです。そのときに父の親友の中国人が、私たち家族を屋根裏部屋にかくまってくれました。ただ、そこに日本人がいるとわかったら何をされるかわからないので、息をひそめて暮らしていたんですね。私はそのとき6歳でしたが、すぐ下に弟が3人いました。二番目は4歳で、三番目が2歳(ちばあきお【7】/漫画家)、いちばん下は生まれたばかりです(七三太朗【8】/漫画原作者)。近所で中国の子供が遊んでいると弟たちが外に出たがるんですが、それをなだめるために絵を描いて物語を読み聞かせていました。すると、弟が「次はどうなるの」「続きが読みたい」と急かすんですよ。まるで締め切りに追われている人間みたいで(笑)。それが漫画を描きはじめたきっかけですね。
村上:私の場合は、手塚治虫先生【9】が創刊した「COM【10】」(虫プロ商事/1967年創刊)という漫画雑誌がきっかけです。それまで漫画といえば、丸い顔で、三等身や四等身ぐらいで面白おかしい子供向けが主流でしたけど、「COM」に載っている作品は、小説や文学、映画に匹敵するようなものまであって、もっと大人の感性に近いような漫画でした。こういうものでも許容されるなら私も……と思い、「COM」に投稿しはじめたんです。
—— 練馬区で活動されるようになった理由を教えてください。
ちば:私は家族が多いから、昼間、家では集中できなくて、「落ち着いて仕事したい」とボヤいていたら、編集者が建売の家を見つけてきてくれたんです。引っ越したあとで「なんで富士見台なんだろう?」と思ったら、私の家とは線路を挟んで反対側に手塚治虫先生のお宅があり、さらに近所には馬場のぼるさん【11】、白土三平さん【12】、石ノ森章太郎【13】……と、要するに編集さんが原稿を受け取りに行くルート上に組み込まれたんですよ(笑)。
村上:私も編集者の都合です(笑)。担当編集に「中央線沿線でアパートを探してもらえませんか」とお願いしたところ、その当時は私も本当に忙しくて、自分で確かめに行くことは絶対にできない状態でした。その編集者を全面的に信頼して、引っ越し当日にトラックで揺られていると、一面にキャベツ畑が広がってくる。「あれ、中央線のそばにこんなキャベツ畑があったかな?」と(笑)。その日の夜に近所を歩いていると、真っ暗闇の住宅街の中にポツンと、煌々と明かりをつけてる家が一軒だけありました。それが古谷三敏先生【14】のお宅でした。私の担当編集は、古谷先生の担当でもあったんですよ。そこで「やられた!」と気づきましたね。
—— 練馬区には多くの漫画家がいますが、どのような交流がありましたか?
ちば:『ちかいの魔球』(1961〜1962年)【15】という野球漫画を描いている頃に担当編集とキャッチボールをしたら、体中から湯気が出て、ものすごく汗をかいたんですよ。そうしたら、それまで不眠で仕事がはかどらなかったのが一気に解決したので、運動不足が原因だったんだな、と。それで松本零士【16】とか近所の漫画家を集めて野球チームをつくったり、ゴルフやテニスをやったりしているうちに、うちは漫画界の運動部みたいな役割になって、運動会をしたこともあります。
村上:私も漫画家仲間に誘われて野球チームをつくったんですが、なにしろ私が野球音痴で、われわれのチームは非常に弱かったんです。あるとき、ちば先生にお電話をいただきまして、ちばてつやプロダクションの女性チームと対戦したことがあります。1回目はかろうじて勝利したんですが、その後、高野台の野球場の横を通りかかった時に、どこかで聞いた声がする。ふと見ると、ちば先生がノックして女性チームを特訓してるんですよ(笑)。「あっ、やばい」と思っていたら、案の定、第2戦は負けてしまいました。
ちば:いやぁ(笑)。
村上:ちば先生は、今でもお会いするたびに「毎日一回熱い汗を流しているか?」って声をかけてくれますね。
ちば:漫画家というのは、締め切りに追われたり、アイデアが出なかったり、冷たい汗をかくことが多いんです。それだと病気になっちゃうから、熱い汗をかかなくちゃダメなんですよ。
—— おふたりにはスポーツマンガという共通点がございます。
ちば:それまでの漫画の主人公というのは、だいたい二枚目で、親孝行で、正直者で、友情に厚く、女の子にもモテる。私はそういうのを描いていると「こんな完璧なヤツいるかな?」と思っていたの。それで編集部に懇願して、欠点だらけの主人公を描かせてもらったのが『ハリスの旋風』(1965〜1967年)【17】。私はこういう人間になりたかったので、もう生き生きと描けて、人気が出ちゃった。それから私の漫画の雰囲気はガラッと変わりましたね。
村上:『ハリスの旋風』には、主人公が剣道をやることになる展開があって、そこが本当に素晴らしく、もう抱腹絶倒しましてね。これよりも面白おかしく描くことは絶対無理だから、自分はもっと武道漫画っぽくするしかないな、と思って描いたのが『六三四の剣』(1981〜1985年)【18】です。
ちば:『六三四の剣』面白かったねぇ。
村上:ありがとうございます。実はその前に野球漫画も一回だけ描いたことがあるんですよ。「少年ジャンプ」(集英社)に載った『長島茂雄物語』(1974年51号掲載)【19】という、読み切りです。自分では自信を持って描いたつもりですが、バットの持ち手が逆だったり、王貞治選手を右打席に立たせたりと、だいぶ間違えてお叱りを受けてしまった(笑)。それに懲りまして、『六三四の剣』のときには少年剣道のクラブに入門して素振りを6カ月やったり、監修の方にチェックしてもらったりするようになりました。
—— 本日のイベントはいかがでしたか?
ちば:練馬にはまだまだ漫画家やイラストレーターやアニメーターがたくさんいるので、またこういう会をやりたいね。
村上:われわれは読者を目の前にしてパフォーマンスするような仕事ではありませんけど、読者の皆さんと結びつけられるようなイベントにしたいですね。
新谷かおる先生×武論尊先生(6日)
—— 漫画家として活動することになったきっかけを教えてください。
新谷:私はもともとアニメーターになりたかったので、手塚治虫先生が設立した「虫プロダクション」(1961〜1973)【20】に入ろうと思って上京しました。そして、練馬のアパートに入居し、いざ虫プロダクションに行ったら、潰れてたんです。じゃあ、ほかに食べる手段を考えなくては、と思って大泉学園の東映動画(現・東映アニメーション)【21】に行くと、赤い旗が何本も立っていて、「首切り反対」と労働組合が大騒ぎしている。それをかき分けて「俺を入れてくれ」というわけにもいかないので、これはもう漫画賞に応募して、まずは今月と来月の家賃を稼がなくては……と。それで漫画を描き始めたんです。
武:原作は本当に誰でもなれます。字さえ書ければ、いや、言葉をしゃべれればなれるんで、本当に入り口は広いです。そもそも俺は漫画に原作があるなんて知らなかったんだけど、たまたま本宮ひろ志先生【22】のところに居候していたら、「書いてみないか」って言われたんです。本宮プロでアシスタント相手に麻雀ばっかやってたから、体よく追い出されたんですよ(笑)。それで梅本さちお先生【23】とちばあきお先生とか飲み仲間がいる石神井公園に引っ越したんです。そこへ頼っていけば酒には困らないぞ、と。
—— アイデアに詰まったときの打開策をお教えください。新谷先生は、家族に黙ってバイクや車で、フラッと出かけていたようですが?
新谷:私はひとりっ子で、相談する相手がいないまま育ってしまったから、どうしてもひとりになる時間が必要なんです。だけど、家内に言わずに出かけるときは、どこか心にやましいところがあるんでしょうね。そういうときは、きまって事故を起こしてしまう。バイクを崖下に転落させたこともあるし、車を高速道路で裏返しにして大破させたこともありました。そういうようなことを何回か繰り返しているので、本当によく生きているな、と思います(笑)。一度、夕方の4時ぐらいに事故って、夜中の0時過ぎには仕事場で仕事をしていたこともあります。
武:俺は「ダメだ」と思ったら、死ぬほど酒を飲みます。泥酔してリセット。それまでのストーリーを全部捨てるための泥酔です。ただ、一度どうにもキツくて、泥酔するだけでは解決しなかったことがある。そのときは3カ月ほど休みをもらって、北海道の牧場でタダで働かせてもらいました。
—— えっ、北海道ですか?
武:馬糞を片付けて、藁を入れて、厩舎を掃除して……。いわゆる厩務員の仕事ですね。それがちょうど厄年のとき。本当になんかパタッときて、このまま仕事続けてたら、俺パンクするな、って感覚でした。酒を飲んでもダメ、競馬をやっても全部外す。何をやってもダメだから、もう逃げるしかない。それで連載を全部ストップしたの。まぁ、帰ってきたときには編集長が代わっていたけどね。
—— 武論尊先生が原作(史村翔名義)、新谷かおる先生が作画を担当された『ファントム無頼』(1978〜1984年)【24】についてお聞かせください。
新谷:小学館から突然電話で呼び出され、「お前は飛行機を描くのが好きだから、この原作でやれよ」と言われたんですよ。それが当時の名物編集者で、なかなか強引な人だったんですよね。なかなか拒否できないような状況でスタートしたんですが、まあ、私は飛行機が描けるお話だったら何だっていいや、というところもありました。
武:俺も同じ担当に呼び出されて「メカの描けるやつがいるから、お前、何かひとつ書けないか」って。そういうマッチングでした。
新谷:その頃の武先生は、もう『ドーベルマン刑事』(作画:平松伸二)【25】をヒットさせていたんですよ。それなのに「ここんところ、ちょっと描けないんだけど、直しちゃっていい?」って聞くと、すぐに「いいよ。描きたいように描いてくれ」と、太っ腹なことを言ってくれたんです。
武:俺は金になればいいから、好きに描いてもらって全然構いません(笑)。
新谷:全然こだわらないんですよね。びっくりしました。「原作は漫画を作るための叩き台なんだから、原作者はああしろこうしろなんて言わないもんだよ」と、そう言われたことをおぼえてます。これこそ達人の言うことなんだな、って感心しました。
武:原作どおりに描くと、固まって広がりがないんですよ。漫画家さんというのは演出家だから、演出が入らないと面白くならないんです。特に『ファントム無頼』は、女の子のセリフの柔らかさとか、俺に足りないところを全部新谷君が入れてくれていた。「柔と剛」で言えば俺は「剛」だけど、新谷君は「柔」で、そこは本当に学ばせてもらったし、原作者としていちばん勉強になった。
新谷:夜中にファミレスや喫茶店で、よく打ち合わせしましたね。
武:電話だとなかなか伝わらないところがあったからね。俺は飛行機のことは詳しくないから、「ファントムでこういう無茶なことをやりたいんだけど、できる?」とか相談することはよくあった。それに対して「こういうアクションを入れましょう」って提案してくれるんだけど、その構図の取り方なんて、たとえばファントムをお腹から見たようなアングルで描いてくる。そんなの、俺からは出てこない発想ですよ。だから原作者の文章を書く力と、漫画家の演出する力って、全然別物なんですよね。
新谷:漫画家と原作者にしては、よく会っていたほうじゃないかな。普通、原作者と漫画家って、あんまり顔を合わせるものじゃないんですよ。
武:本来であれば、編集者に相談すればいいことなんだけど、俺たちがあんまり編集者を信用していなかったから(笑)。最寄り駅が隣同士だったから、会いに行くことができたんだ。
新谷:でも、打ち合わせ中に、武先生は違う方向をジーッと見てたりすることがある。「何してんのかな?」と思ったら、そこに若い女の子と男の子が集まってキャーキャー騒いでいる。そしたら武先生が「子どもがこんな時間に何をしてるんだ!」って怒り出すの。「いやいや待ってよ、いまそっちの話しじゃないでしょ」と(笑)。
武:いやぁ(笑)。
新谷:結構、おもしろいコンビだったと思いますよ。
複製原画展示
ゆめりあホール7階のギャラリーで、練馬区とゆかりの深い漫画家の原画(もしくは複製原画)が展示された。
本展示にはプロ漫画家集団
「株式会社ぽけまん」【26】(代表:村上もとか、副代表:石川サブロウ)が協力しており、「ぽけまん」参加作家やその友人・知人作家をあわせて28名の作品が展示され、トークショーに登壇したちばてつや(『のたり松太郎』『おれは鉄兵』『紫電改のタカ』)、村上もとか(『JIN -仁-』『六三四の剣』『ヘヴィ』)、新谷かおる(『エリア88』)らの原画もギャラリーを賑わせた。雑誌や単行本とは違う原画サイズは迫力満点で、間近に見る筆致の精細さや豪快さには圧倒されるばかり。一部を除き撮影も許可されており、誰もがスマートフォンのカメラを傾けていた。
また、今年2月に逝去された故・松本零士の「はんじ絵」も特別に掲出され、多くの来廊者が原画の前で足を止めていたのが印象的だった。大泉学園駅前の広場
「大泉アニメゲート」【27】には
『銀河鉄道999』【28】のメーテル・星野鉄郎のブロンズ像が建立されていることもあって、松本氏およびその作品は地域住民から親しまれている様子がうかがえた。
ワークショップ
ゆめりあホール7階展示スペース奥にて、両日とも午前中にワークショップが開催された。講師を務めたのは、代表作に
『雨の朝サブは』(原作:梶原一騎)【29】などのある
下條よしあき【30】と
、『漫画版 論語と算盤』(原作:渋沢栄一)【31】などで知られる
近藤たかし【32】。参加者(事前申込制)に漫画の描き方をレクチャーする内容である。参加者には色紙を配布し、鉛筆での下絵、サインペンでのペン入れ、彩色までを体験してもらっていた。絵を色紙いっぱいに大きく描くのは意外と難しく、まずアタリをつけるのが肝心だとプロならではの指導にしたがい、参加者たちは思い思いに好きな絵を熱心に描いていた。夏休みの真っ最中ということもあって、応募者は定員満員。こちらのイベントも両日ともに大盛況であった。
似顔絵コーナー
ワークショップと同じスペースで両日とも午後に、似顔絵コーナーが催された。当イベントを担当したのは、
『つるピカハゲ丸くん』【33】でおなじみの、
のむらしんぼ【34】と、ワークショップで講師を務めた下條よしあき。参加者を相手に、好きな漫画を聞いたり、連載作品について話すなど軽妙なトークを交わしていると、みるみるうちにイラストが完成していく。プロの漫画家らしい、特徴をとらえた似顔絵に参加者たちは大喜びであった。
《終了》【告知記事】区ゆかりの漫画家によるトークイベントや展示を行う「ねりま漫画サロンinゆめりあホール」を開催します!
練馬区には多くの漫画家が居住しており、これまで数々の名作が生み出されてきました。そして、それらを原作とした映像作品も多くの方々に愛されています。そこで今回、区ゆかりの漫画家をお招きし、漫画家としての活動や作品に影響を与えた練馬でのエピソードなどを伺います。
【開催日】
(1)令和5年8月5日(土)14時から15時
(ゲスト:ちばてつや先生、村上もとか先生)
(2)令和5年8月6日(日)14時から15時
(ゲスト:新谷かおる先生、武論尊先生)
【会場】
大泉学園ゆめりあホール(練馬区東大泉1-29-1)
【料金】
無料(抽選)
【対象】
区内在住・在勤(在学)の小学生以上(申込者、同伴者共に)
申込期間:令和5年6月21日(水)から6月30日(金)まで
申込方法:申込方法等の詳細は、
練馬区ホームページをご確認ください。
※申込受付は終了しました。
8月5日(土):ちばてつや先生 × 村上もとか先生
ゲスト:
ちばてつや先生
昭和14年生まれ、東京都出身。43年に連載を開始した「あしたのジョー」(原作:高森朝雄)は、時代を象徴する、一大社会現象となる。練馬区名誉区民。
〈主な作品〉「1・2・3と4・5・ロク」、 「おれは鉄兵 」など。ビッグコミック誌にて「ひねもすのたり日記」連載中。
ゲスト:
村上もとか先生
昭和26年生まれ、東京都出身。クライミングや剣道、日中近代史、少女マンガ史など、さまざまなジャンルの作品を描く。4月、石神井公園ふるさと文化館館長に就任。
〈主な作品〉「六三四の剣」、「龍-RON-」、「JIN-仁-」など。グランドジャンプにて「侠医冬馬」(共同作画:かわのいちろう)連載中。
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8月6日(日):新谷かおる先生×武論尊先生
ゲスト:
新谷かおる先生
昭和26年生まれ、大阪府出身。松本零士先生の元でアシスタントを務める。繊細な感性による人物表現と緻密なメカ描写をベースに独自の世界観を創りだす。
〈主な作品〉「戦場ロマン・シリーズ」、「ファントム無頼」、「エリア88」など。
ゲスト:
武論尊先生
昭和22年生まれ、長野県出身。漫画原作者。史村翔のペンネームでも活躍し「ファントム無頼」(作画:新谷かおる)の原作を担当。
〈主な作品〉「ドーベルマン刑事」(作画:平松伸二)、「北斗の拳」(作画:原哲夫)など。ビッグコミック増刊号にて「Too BEAT」(作画:吉田史朗)連載中。
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原画等展示イベント
村上もとか先生をはじめ、区ゆかりの漫画家の原画・複製原画の展示を行います。
※自由入場制です。
※混雑時は入場制限を行うことがあります。
【開催期間】
1 令和5年8月5日(土) 10時から19時 (19時30分会場閉鎖)
2 令和5年8月6日(日) 10時から17時30分 (18時会場閉鎖)
【会場】
大泉学園ゆめりあギャラリー(東大泉1丁目29番1号 ゆめりあ1 7階)
西武池袋線「大泉学園駅」北口徒歩1分
イベントの詳細や追加情報については
練馬区ホームページをご確認ください。