—— 大きな転換点だった『あしたのジョー』【1】を一緒に作られた出﨑統監督【2】と、最初にご一緒した作品は?
丸山:たぶん『悟空の大冒険』【3】だと思います。僕が助監督でスタジオに入ってて、隣が統ちゃんのいたスタジオ。同じスタジオの中のグループだったんで、そこで『悟空の大冒険』の出﨑作品を観て、他の人と全然違う、シャープで思いつきがすごい。シナリオと関係なく映像をやっていて、「若くて一番トンでるやつ」っていう印象でした。
でも、そんなことよりも、どちらかと言えば麻雀友達で、毎日一緒にいました(笑)。
虫プロダクション【4】が好きなもう一つの理由は、勝手にいろんなことができるところ。仕事をやりたいときは仕事をやるけど、仕事をやりたくないときはやらなくてすんじゃう。誰かがやってくれてるんです。僕と統ちゃんは麻雀ばっかりやってて、怒られたりもするんですけど、最終的には許してもらえてるあのすごさ。今考えるとあり得ないですね。誰もちゃんとコントロールをしてない。でも物ができちゃう。僕が虫プロに居ついたのは、ひとえにあの無政府主義的なところだと思います。
ただ、僕はそういう会社はやるつもりもないし、やったら潰れちゃう(笑)。
—— 出﨑監督とたくさんの作品をやってた印象がありますが、『あしたのジョー』、『ジャングル黒べぇ』【5】、最初の『エースをねらえ!』【6】、後年の『ウルトラヴァイオレット:コード044』【7】以外にもありますか?
丸山:ありますよ。虫プロが駄目になって、僕らはマッドハウス【8】を作ったんですけど、それは出﨑に仕事をやってもらうための会社なんです。僕のためじゃない。『あしたのジョー』をやったスタッフで『国松さまのお通りだい』【9】をやったんですけど、もう一度そのスタッフで出﨑監督の作品を作るっていうのが僕的なイメージでした。
でも、すぐには仕事がなくて、東京ムービーの下請け仕事から始まったんです。
そのころに、やはり虫プロから独立した、先輩の岸本吉功さん【10】たちが作った創映社、今のサンライズ【11】ですけど、そこから声が掛かって。創映社の1発目の『ハゼドン』【12】をやってくれないかって。
「こういうギャグものとか軽いものは、お前が一番向いてるからやってよ!」なんて乗せられちゃって。出﨑も暇だったからチーフディレクターって肩書にして。だから『ハゼドン』の頭は、出﨑と僕でやってたんです。
ただ、出﨑は1クールやったあと、「これはどうもオレ向きじゃない」ってやめちゃって。僕は岸本さんの手前、やめるわけにもいかないので、2クールもきちんとやってマッドハウスに戻りました。
—— 『劇場版 エースをねらえ!』【13】とか『ガンバの冒険』【14】にも関わってらっしゃいますか?
丸山:関わってるというか、マッドハウス作品っていうのは基本的に僕が関わらざるを得ないんですよ。
ただ、どの程度関わったかっていうと、作品によっては「これは統ちゃんにおまかせ」というのもありました。
当時マッドハウスはお金が全然なかったですから、僕がサンリオ【15】に出向したり、なぜか実写のピープロダクション【16】に出向したり。『風雲ライオン丸』【17】なんてのも平気でやってる(笑)。ピープロのプロデューサーの方は脚本の直しがうまい人で、ものすごく勉強になりました。
日本アニメーション【18】に出向したときは、『ピコリーノの冒険』【19】なんかのシリーズ構成をやりましたね。
とにかくマッドハウスにお金を入れなくちゃないから、出向して拘束料をもらってきてたんです。その頃、一番稼いでたと思います(笑)。
いろんなことやってたんで、統ちゃんの作品にあんまり関われないときもあったんですよ。
マッドハウスでは、統ちゃんと宣伝映画、コマーシャルフィルムとかPRフィルムとかも、好きでやってました。
井上陽水の「闇夜の国から」【20】のミュージッククリップとかね。
そういう作品をやってると、統ちゃんの才気がわかるんですよ。閃きみたいなものが。
『悟空の大冒険』の頃には既にあるんですけど、ミュージッククリップやらコマーシャル映画での才気は見ていて嬉しくなっちゃう。
この仕事が好きになっちゃう原因は、そういうところにありますね。
—— 何人か監督のお話を伺います。『夏への扉』【21】『浮浪雲』【22】『はだしのゲン』【23】『時の旅人』【24】の真崎守監督【25】とはほぼ同年代と伺いました
丸山:真崎守、りんたろう、僕は生年が昭和16年で全く一緒なんですが、虫プロの先輩で尊敬すらしてました。
ただ、彼は不思議な人で、虫プロ時代は絵を描く人だとは夢にも思わなかったです。
辣腕の制作マンだったんですよ。すごいプロデューサーとして、仕切りの上手さと整理の上手さと、スケジュールをきっちり守って、強引に有無を言わせずやっていくタイプでね。
虫プロを辞めてマッドハウスを作った時は、演出は出﨑しかいないんですよ。彼はそんなに器用ではないし、仕事を始めたら集中しちゃうし、それ以外の仕事をどうするかっていうときに困り果てて。
それで真崎守を呼んできて、「漫画も描けるんだし、あなたなら絵コンテぐらい描けるだろう!」って、マッドハウスの初期のころは全部森ちゃん(真崎守監督の本名・森柾(もり まさき))にお願いしていました。
ただ、上がってくる絵コンテがアニメーションの現場的には難しいところがいっぱいあるんですよ。
それでどうしようかっていうところで川尻善昭【26】を呼んできて、「森ちゃんのコンテがあるから、描き直して」って。川尻が全部リライトしてるんです。映画的なコンテを、レイアウト段階でアニメーションにしていくんです。
そこで逆に言うと、川尻が育つんですよ。演出が分かっていくという。僕にとっては一挙両得でした。
森ちゃんには助けてもらって申しわけないなと思っています。
—— りんたろう監督【27】とも、たくさんの作品をご一緒されています
丸山:そうですね。なんでも言える唯一の人だと思います。
どんな脚本でも、どんな世界観でも、どうにかする、こなしてみせる、ある種のアーティスト。
じゃあ、それで終わるかっていうとそうじゃない。そういう底知れないところがある。
何でもできちゃうじゃないですか。短編でも、ハードでも良い。
そういう意味でも本当、最初からずっと今まで助けてもらってます。
そして、やっぱりその一つのポイントである『幻魔大戦』【28】ってのは、僕は日本のアニメーションを変えたと思うんですよ。あれがターニングポイント。
アニメーションが劇場映画として成立するようになって、今までの手塚治虫【29】や石ノ森章太郎【30】ではない大人向けのSFを、大友克洋【31】のキャラクターでやろうとしたんです。当時、あんな絵を描く人はいませんでしたからね。
そして、角川春樹【32】という特別な存在が、「りんたろうに任せる。お金も出すぞ!」と言ってくれた。
りんたろうの演出も含めて、新しいことに対するチャレンジが、日本のアニメーションを変えたパワー。凄いことだと思います。
今でも困ったときに、りんたろうに相談すると「しょうがねぇなぁ」と言いつつやってくれますから(笑)。ずっとお付き合い願っています。そういう意味では僕は本当ラッキーで、恵まれているんですね。そういう人たちが一緒にいて支えてくれる。
幸せな人生でございました(笑)。
—— 残念ながらお亡くなりになりましたが、今 敏監督【33】の劇場作品も、丸山さんがご一緒されています
丸山:いろんなことを言われるけど、僕は単純に今 敏のそばに居て、彼が仕事をする場所を作って、彼が面白いと思う作品を、好きなように作ってもらっただけ。作品そのものは全て今 敏作品ですからね。
ただ残念なことがあるとするならば、全部赤字だったことだけだと思います。
あれだけの作品がなぜ売れないのか。僕にとっては謎で、だから意地になって作り続けたのだけど。
あんなに面白い、だから、いまだに残っている。今君の全作品は賞味期限エンドレス。ちょっと類まれなる人ですね。
「面白い作品を一緒にやれて良かった」ってなれる、最大の人でしたね。
—— 片渕須直監督【34】とはどのようなお付き合いですか?
丸山:ごく最近、2,3本付き合ったように見えるんですけど、実は本当に古いんですよ。
僕が虫プロを出た後、残った人で会社を運営して『うしろの正面だあれ』【35】って作品ができたんです。昔の仲間がやってるんで観たんだけど、びっくりしました。「どうしたのこれ、今までの虫プロの作品と全然違う」と。クレジットは当然、知ってる人の名前が出てくるんだけど、1人だけ知らない名前の「片渕須直」ってタイトルがあったんです。「この人何者?」って聞いたら、「ジブリ【36】でやってる人で、今回だけレイアウト【37】でお願いした」って聞いて、なるほどと。実は一番驚いたのがレイアウトだったんです。僕は川尻とか、りんたろうとか天才の仕事を見ているからレイアウトにはうるさいんです。だから、「なんだこの画作りは!近いうちにいっしょに仕事しよう!」って、即電話したんです。それから一緒に仕事をするようになったのが20年近く経ってからですね。
早いし上手いし、誰でも仕事を頼みたくなる男なんですよ。ものすごく忙しくて、ずっと待っていたんです。
ちょうど4℃【38】で『MEMORIES』【39】の『大砲の街』【40】を作ってるときに、大友克洋君の助監督をやってると聞いて、「助監督なんてやってないで監督をやりなさい!」って言って(笑)。そのあと、『BLACK LAGOON』【41】をやってもらって、頑張ってくれたお礼に『マイマイ新子と千年の魔法』【42】をやりましょうと。『BLACK LAGOON』とは違うテイストだけど、逆に僕は彼にやってほしかったんです。完成した『マイマイ新子』が僕はものすごい好きで、この延長線でなにかできないかと考えました。それに『マイマイ新子』を観たお客さんが、僕よりもずっと好きな気持ちを持っていることも分かった。「じゃあ、お客さんに応えらるものをやろうよ」ということになって、『この世界の片隅に』【43】を片渕君が選んで結果を出したんです。
だから、『この世界の片隅に』に来るまで30年以上ありますね。
「一緒に仕事をしようね」って言ってから、ようやく実を結んだのが、『BLACK LAGOON』であり『マイマイ新子と千年の魔法』であり、『この世界の片隅に』なんです。
—— そして細田守監督【44】です。『時をかける少女』【45】『サマーウォーズ』【46】を丸山さんの元で作られました
これはですね、細田君が演出した東映【47】の『おジャ魔女どれみ』【48】を観て、「TVシリーズでこんなことやっちゃいけません!」って言うくらいびっくりしたのがきっかけなんです(笑)。「魔女を卒業した魔女」のお話【49】で、その魔女を原田知世【50】が演じていました。どのぐらい時間かけたのかわかんないけど、この話の展開とか匂いがものすごく好きで、東映さんには申しわけないけど「これは子ども向けである必要がない、もったいないな」と思ったんです。子ども向けということで大人が観てくれない。その枠組みの中でいいのか?みたいのがあって。
それからしばらくして、今 敏君が僕の反対を押し切って、「筒井康隆【51】をやる。原作ものなら早くできる」っていうので「わかった、やろう」と、『パプリカ』【52】をやることになったんです。
とはいえ、「これ絶対当たらないよな、今君の作品の中でも内容的に言うと一番難しいんじゃないか?」と思ったので、二本立てにして公開しようと。一番わかりやすくてエンターテインメントの要素が強い筒井康隆をやるべきだと、筒井さんに『パプリカ』の原作権を交渉するときに「ついでと言ってはなんですが、『時をかける少女』もアニメにしてみたいんですけど」って聞いたら「OKよ」って言ってくれて。
それで細田君に連絡して、「『時をかける少女』を、細田君が作った『おジャ魔女どれみ』で作ってほしい。子どもたちは出さなくていいから、主人公は原田知世の側でね」と。「原作は気にしなくていい。筒井さんと話はついているから大丈夫!」ということで、彼に撮ってもらったんです。
—— 『時をかける少女』『サマーウォーズ』をきっかけに、齋藤優一郎【53】さんが細田守監督と一緒に「スタジオ地図」【54】を作り、一歩前に出る大きなきっかけになったと思うのですが
丸山:マッドハウスで動画チームを作ったときに、制作としてプロデューサーとして、僕のすぐ下に齋藤がついてやっていましたから。映画が2本できたところで「もう2人で会社を作れば」みたいな。みんなそうなって欲しいと思うんですよ。
監督っていうのはどんなプロデューサーとやってもいいけど、「このプロデューサーと組むぞ」てのがあった方がお互いに良いと思うんです。そういう人がなかなか見つからないんですけどね。
齋藤って本当に類まれなんですよ。細田がいて齋藤がいる。
「宮崎駿さん【55】がいて、鈴木敏夫さん【56】がいる」ような感じで。
僕はあちこち手を出すんで、細田もやるし片渕もやるし、全部やっちゃうんで、そういう人が居つかなかったんだけれども。
だから細田君と齋藤が一緒になって頑張ってくれていることは、僕にとっては嬉しいことです。
—— 最後に丸山さんのお仕事のことを伺いたいのですが、「この作品をやろう」と決めるポイントみたいなものはありますか?
丸山:ないです。何でもOK。
これもね、どっちかっていうと、手塚DNAかもしれない。
手塚さんってのは、何でも「仕事だけ」で受けちゃうんです。
僕の場合、例えば100本あるとして、そのうち何本を受けられるっていう。「これだったらこの人とやりたいとか、あの人とやりたい」とかそれは出てきますけれども、基本的に「これじゃないといけない」っていうのはあんまりない。
ただ、僕1人でやるかっていったら多分全部やらないですね、遊んでいたいほうだから(笑)。
人がいるから、「こいつがやるならやるよ」って。誰もやってくれる人がいなくなったら、喜んで仕事を辞めさせてもらうけど、誰かやってくれる人がいる以上はやりたいと思ってます。
中身はなんでもいいんです。作ることの中で一番大事なのは、「誰かとやること」ですね。
売れてるものとか、誰でもやれるものっていうのは、あんまりやりたくないかもしれない。
でも、「これは非常に困ってます」とか、「これはやれないでしょ」って言われちゃうとムラっと来る。これは病気ですね(笑)。
—— 2022年6月に生前葬をなさいましたが、どのような思いだったのでしょうか?
丸山:本当に元気なうちに皆に会って、ちゃんとご挨拶しておきたいなっていうのが一番の趣旨ですね。
明るい、面白い葬式がやりたい。僕らエンタメで生きてる人間が、悲しい葬式をやっちゃいけないと思ってますよ。それに賛同してくれた人が一部いたんで、すごく幸せにこの人生が終われるなと思ってます。
—— とはいえ、企画がまだいくらでもあると伺っています
丸山:今やってるものは、何だかんだ準備から始まって10年近くたった1本の作品に掛かってますから。
今81歳ですからさすがにこれで終わりだろうと。精魂尽き果てて、次の仕事はやりたくなくなるだろうと。もう誰も付き合ってくれなくなるだろうと思ってたんですよ。
その作品は今年完成するんで、だいたいのところが見えたところで、まだ誰か付き合ってくれそうだなっていうのと、まだ俺はちょっと頑張れそうかなと思って、「最後の1本をやります!」と。
しばらく考えて、どうしてもやりたいと思ったのが、約15本(笑)。
だから、ラストワンの1、ラストワンの2、ラストワンの3って感じで、どこまでできるかはその時の状況次第。
ただ、企画が動き始めたら、目鼻がつくまで死んでも死にきれないからやるだろうと。
一度に15本は難しいので、3本くらいから準備を始めてる感じです。
—— 今、映像の世界に入ってきた若い人たちや、これから映像の世界に入ろうとする若い人たちへのメッセージがあればぜひお聞かせください
丸山:結局、一人の能力は大事です。でも、アニメーションはやっぱり総合力じゃないですか。
1人で何ができるというのはあるかもしれないけど、せっかくだからチームを組んで、そのチームがどういうもので、そういう世界で、どうやっていくかってのをプランニングしつつやっていく。
大好きな言葉に、「仲良くケンカしな」【57】というのがあります。
ケンカってのは仲が悪いからするって思い込んでたんだけど、いやそうじゃなくて、仲良くケンカしながらものを作り上げていく。すごく良いことだと思いますよ。
—— 練馬区がこのような映像文化にフォーカスした取り組みをしていることについて、どう思われますか?
丸山:それはもう僕にとっては心の故郷ですから。虫プロというものが、手塚さんの存在というものが、今の日本のアニメーションの原点。それが富士見台に凝縮されていると、僕の魂は全部そこにあると思っています。これはやはり大事に大事に育てていったり、核になっていくべきで、そうなってほしいなと思います。