—— 最初にお勤めになった虫プロ【1】が練馬区富士見台にありました。練馬区の思い出などお聞かせください
丸山:富士見台は僕の聖地。というかアニメの聖地ですよね。
アニメーションって言ってもいろいろある中で、テレビのアニメーションは『鉄腕アトム』【2】から始まって。ある意味では日本のアニメーションがここまで来たのは、やはり手塚治虫【3】さんが富士見台でテレビのアニメーションを始めたことが、全ての原点だと思います。
僕が今現在この仕事をやってられるのも、やっぱり富士見台での青春のひとかけらが、現在に繋がっているんだと思っています。
まぁ、家に帰れなかったですからね。ほとんど虫プロの中にいて、数軒先の中華屋さんで朝昼晩の飯を食ってたんで、数年間は富士見台から一歩も外に出なかった(笑)。1年に1回か2回、池袋に行くと、「おお、都会!」って感じで(笑)。
それと僕の母親が、虫プロのそばで雀荘をやってたんです。お客は虫プロの人ばかりで(笑)
そんな時代もありました。いろんなことが忘れられないですね。
—— 虫プロに入ったきっかけは、阿部進さん【4】と伺いました
丸山:当時、手塚さんが人がいなくて困ってるらしい、まだアニメーションを誰も知らないから人が集まらない、誰でもいいから必要だって話があって、「お前行ってこい」って言われて。
西武線に乗って池袋から富士見台行って、その日から1週間ずっと泊まり込みです。相性が良かったんですね(笑)。
アニメーションってわかんないし、はっきり言って興味もなかったし、何をやるかわかんないけど、行った途端、いろいろお手伝いの場がいっぱいあって、なにやれあれやれこれやれと言われて「はいはいはい」(笑)。
訳もわからずにやることは山ほどあったんで、ずっとそのまま現在に至るというか、そのまま居ついちゃった。
手塚さんというか、虫プロに行かなかったら多分アニメーションをやってなかったでしょうね。
—— アニメを知らなかったとおっしゃられましたが、映画やテレビはお好きだったのですか?
丸山:映画とかテレビはものすごく好きで観ていました。手塚さんもアニメというものの、やっぱ映像をかなり意識していた方で、「この映画がどうのこうの」とかって話されていましたね。
子供の頃にアンドレ・カイヤット【5】の映画『眼には眼を』【6】を観て、さっぱり訳がわかんなくて何だこれはと。こんな難しいというか不愉快っていうか、なんかアンビバレンツになる気持ちっていうのは「すごいな」と思いました。
そう思う反面、バンジュン(伴淳三郎)【7】、清川虹子【8】、堺駿二【9】、エノケン(榎本健一)【10】なんかのアチャラカ映画【11】もものすごく好きで。
中学から高校にかけては、そんなどちらの映画も「面白い」と思う自分の感性はおかしいんじゃないか?本当に好きなのはどっちなんだ?」とも思ったのですが、「でも、どちらも好きなんだからしょうがねぇよなぁ」と(笑)
それがいまだに尾を引いているのかな。アチャラカ的な面白さが大好きだけど、真面目というか不安なことにもすごく興味がある。
手塚さんはその点、お医者さん的な哲学があるけれど、子どもにもわかりやすいようにかみ砕いてどのようにも表現できる人で、「手塚治虫はいいな」と思います。でもそれに気づいたのは相当歳をとってからでしたけど。(虫プロに)入ったばっかりのころは、「なんだかめんどくさいオヤジ」ってくらいにしか思ってなかったですから(笑)
—— アニメーション制作に携わるようになり、脚本をご自身で担当されたり、文芸面のチェックをされていますが、そのきっかけは?
丸山:映像が好きなんで、監督になりたいなと思った瞬間はあったんです。ただ虫プロに入ったら、周りにりんたろうさん【12】だとか平田敏夫さん【13】とかすごい人がいるんで、自分はそこまではできないなと。だから、彼らのお手伝いをしたいと。
監督やったりシナリオを書いたりは専門の人におまかせして、その人たちがやりやすいというか、物が作れる状況を作るのが僕の仕事だ、って思ったのはいつからだったのかわかりませんが、自然とそっちの流れになりました。
昔は今のようにビデオがなかったけど、当時の映画館は入れ替えがないので、ずっと同じ映画が観られたんです。そうすると、大体全部頭の中に残るので、それを文書で書くんです。要するにシナリオを起こす。シナリオは世の中に出回ってないけど、たまにキネマ旬報なんかに載っているので、自分の書いたものと照らし合わせる。そうすると、自分が書いたものがいかに駄目か、でもシナリオはこういうふうに書けばいいんだってのはわかるわけですよ。
何年も続けていると、シナリオや映画の良し悪しがわかってくるようになる。多分、結果的にはそれがかなり勉強になった。自分で起こしてみると、文章力もだけど、構成のやりかたがかなり具体的にわかります。
ビデオでもいいから自分で起こしてみると、かなりシナリオの勉強になるし、演出の勉強にもなるんじゃないかなと思います。若い人にはぜひそれはおすすめしたいですね。
—— このまま虫プロで続けようって思ったきっかけは?
丸山:続けようと思ってないですけど、続いただけの話で(笑)。でも、辞めた人がいっぱいいるから辞めたくなかったのかな。やることいっぱいあるから居られたというか。ずっと後になってからですね。「これもいいかな」って思ったのは。
仲間ができてくると個人の仕事じゃなくなるわけです。みんなとの仕事になるわけ。この監督と一緒にやれるからいい。この作品をやれるからいい。とかそういう感じで。
虫プロは無くなったけど、仲間と一緒に仕事をやる場としてマッドハウス【14】を作りました。
個人的にどうしようかこうしようかって思ったのは、50歳ぐらいになってから。
若いうちは自分はもっと何かできるかもしれない、もっと何かやりたいことがあるかもしれないってずっと思ってたんだけど、50過ぎて60になって、もう潰しがきかないから、もうこれでいいかと思ったときから、「もしかするとこれ、好きでやってるのかもしれない」って思い始めて。
それはアニメが好きだということとは、ちょっと違うんですよ。
アニメーションが好きなのは、多分個人作業じゃないからです。あくまでもチームがないと物が出来上がっていかないんですね。
毎回チームが違ったりすると目新しくなる。コイツ面白いとか、この作品面白いとか。そういう面白さがやっと見つけられるようになったのが、マッドハウスの後半あたりからですね。
「しょうがないか、このまま年とってもいいや」って(笑)
—— 手塚治虫さんはどんな方だったんでしょうか?
丸山:どんな方だったんでしょうね、わかりませんね(笑)
すっごくいい人なんだけど、すごくわがままで、すごく乱暴なところもあるし、かといって、それだけかっていうとそんなことは絶対なくて。
しょっちゅう叱られるんですよ。言ったこと通りにやらないと叱られました。でも言った通りやっても叱られるんです。「誰ですか!これをやったのは!」って(笑)
「言った通りやりました」っていうと、「僕はそんなこと言ってません!」(笑)
最初の頃は、「なんだろ、このオヤジ」って思いましたね。
でも最近すごく思うんですよ。「段々に似てきてる」って(笑)。ほとんど同じことをやってるって。
だって、昨日言ったことを今日もそう思ってるとは限らないんですもん。考え方が変わっちゃったり、ものによっては違ってくることがよくあるわけじゃないですか。
その時にそういったってこと覚えてないときもあるし。実は覚えているけど「違ってる」と言いたくないから「そんなこと言ってません!」っていうところもあるし、そこはもうなんか段々似てきているというか、受け継いでいるのかもしれませんね。
でもそういう意味では、自分に素直なんだと思うんですよ。困ったもんだなと思いますけど。
ある意味、虫プロの、手塚さんの何かをDNAとして、自分はもう取り込んじゃったのかなって、そう思うことがあります。
いろんな意味で、日本のアニメーションは手塚治虫ありき、ではないかなと思います。
—— 虫プロの後にも手塚先生原作の『ジェッター・マルス』【15】『ユニコ』【16】『火の鳥』【17】『陽だまりの樹』【18】『メトロポリス』【19】など作られていますが、手塚作品を残したいという思いが?
丸山:あります。初期に手塚さんを知らなかっただけにすごくあります。「勉強してなくて申し訳ございません」みたいな気持ちがすごくあって。
実は『鉄腕アトム』って僕は嫌いだったんですよ。
当時アニメーションなんてのはやる人もいなくて、お金もなくて、3年か4年に1本東映動画【20】が映画を作ってるぐらいの能力しかないのに、週一で『鉄腕アトム』を作るという。
誰が考えても無茶苦茶で乱暴で、ワガママで、本当にどうしようもないオヤジだと思うんですよ、手塚治虫って。
でも、それを「やります!」って彼がやったから今があるわけじゃないですか。
若いからできたし、僕らも若いからついていけたんだけど、あの手塚治虫のエネルギーというか破天荒ぶりがない限りはできなかった。当時の手塚治虫がやったことっていうのは、あり得ないことです。
僕らは手塚先生が漫画を描いたお金から給料をもらってもらえてたんです。十分豊かな生活ができていたから続けられた。
そういうことをやっちゃった、やれた手塚さんの凄さってのは、これはもう一生忘れないし、今でもその恩義を感じています。
『鉄腕アトム』って、何か元気いっぱいの健康な男の子で自分の性に合わないと思っていたんですよ。
でも、それに準じた作品を色々やっていた時にハッと気づいたんですけど、実はサーカスに売られた子なんです。ようするにマイノリティなんですよ。健康で元気で、ひたすら物を破壊するロボットじゃないんです。
そういうのを手塚治虫は描くんですね。
だから手塚さんを当時の僕が誤解していただけで、手塚治虫に対する考えかたとか見かたが変わりました。「尊敬」とはちょっと違うけど。
虫プロで育てられた数年間が、骨だったり肉だったりするのかな。富士見台にいた時期っていうのが全てのコア。それだけは、死んでも持っていくものだと思っています。いい時代でした。
—— 『あしたのジョー』についてもお伺いします
丸山:企画室にいた時期があって、ちょうど『あしたのジョー』【21】の漫画が始まって、僕の好きなちばてつやさん【22】だから「コレやりたい!」って。
それで、麻雀友達の出﨑統【23】に原作を見せて、「『あしたのジョー』をやりたい!ちばてつや大好き!」って話したら、「パイロット【24】作っちゃおう」って。勝手に会社の了解も取らずに統ちゃんが原作をコピーしてレイアウトした絵コンテを作って来たんです。今、それが残ってたら凄いと思うんだけど(笑)
その時、出﨑統が言ったんですよ。「丸さん、これ止まっていても大丈夫。観れる」って。
それが最終的に、出﨑統が止め絵を多用していくきっかけですね。
原作をコピーしてレイアウトしたもので実際にパイロットを作ったときに、これでいけそうっていう実感して。
今までやってきた彼の演出論とも全く違うけど、そこで「出﨑統」が生まれた気がします。
でも、最終的なパイロットは、虫プロじゃなかなか難しかったんです。主に手塚さんの絵を描いていたので、等身が小さかったり、顔が大きかったりしていて。
もうちょっと劇画的なスタイルにしたいっていうことで、『巨人の星』【25】をやってたジャガードの荒木伸吾さん【26】と斎藤博さん【27】ところへ行って一緒に作ったのがそのまま本番になって行きました。虫プロのスタイルを逸脱していくというか。でも考えてみるといつもそれやってる気がしますね。
『幻魔大戦』【28】を作ったときも、劇場映画のキャラクターは手塚治虫か松本零士【29】か石ノ森章太郎【30】かって時代に、大友克洋【31】でやっちゃうみたいな。あんな絵を描く人は誰もいなかったんですよ。でも野田卓雄【32】さんを中心に集まってもらって、あの絵に挑戦してもらいました。今までやってきた絵とは全然違いますからね。
長年やっていると、そういうターニングポイントがあるんですね。
それはすべて、虫プロがあったからだし、『あしたのジョー』があったから。
それが今に繋がっているのだと思います。
—— 原作者の方々とのお付き合いで心がけていることはありますか?
丸山:ぜんぜん心がけていません。なんでも作るからには好きにならないといけないとは思うんですよ。
「好きだからこの原作をやるんだ」って。仕事ってのは好きな人の方が上手いんですよ。仕事の上手い人ってのは「好きなこと」を早く見つけることが得意な人。
中身的に言うと、このキャラクターが好きだとか、この監督が好きとか、この絵描きがいいとか、何でもいいから好きなことを早く見つければ仕事も楽しいじゃないですか。
基本的に原作ものをやる以上は、原作者さん全部好きだし、尊敬しているし。
ラッキーなことに、ちょうど好きな仕事が来る。というか選べています。
「これ嫌だな」っていうのは無くはないですけど、その時は「この通りやんなくていいですか」って聞くし、「いいですよ」って言われたら、好きな方に寄せ付けるとかね。
それと、原作に合う監督。「こういう原作やってるんだけど、こうじゃなくてこういうことやりたいんだ」っていうと「面白いね」って言ってくれる人とやる、それはもう常にやっています。