映像∞文化のまち ねりま

ねりま映像人インタビュー

第16回 丸山正雄さん 前編

第16回 丸山正雄さん 前編

2023.02.03

こちらのコンテンツは音声でもお楽しみいただけます。

※現在の社会状況を考慮しビデオ会議システムを使用して収録いたしました。通信環境の状況により、音声が一部お聞き苦しい箇所がございます。ご了承ください
練馬にゆかりの映像人の皆様にお話を伺い、練馬と映像文化の関わりを紹介する「ねりま映像人インタビュー」。
今回と次回のゲストは、アニメーション作品のプロデューサー丸山正雄さんです。

丸山さんは1965年に練馬区富士見台の虫プロダクションに入社、そこから現在に至るまで60年近くアニメを作り続けている日本のアニメ界のレジェンドのお1人です。
『あしたのジョー』から『サマーウォーズ』、『この世界の片隅に』など、関わった作品は実に300作品以上。
今回は、虫プロ時代のお話と手塚治虫さん、ちばてつやさんなど原作者の方々との関わりを中心にお伺いします。

—— 最初にお勤めになった虫プロ【1】が練馬区富士見台にありました。練馬区の思い出などお聞かせください

丸山:富士見台は僕の聖地。というかアニメの聖地ですよね。
アニメーションって言ってもいろいろある中で、テレビのアニメーションは『鉄腕アトム』【2】から始まって。ある意味では日本のアニメーションがここまで来たのは、やはり手塚治虫【3】さんが富士見台でテレビのアニメーションを始めたことが、全ての原点だと思います。
僕が今現在この仕事をやってられるのも、やっぱり富士見台での青春のひとかけらが、現在に繋がっているんだと思っています。
まぁ、家に帰れなかったですからね。ほとんど虫プロの中にいて、数軒先の中華屋さんで朝昼晩の飯を食ってたんで、数年間は富士見台から一歩も外に出なかった(笑)。1年に1回か2回、池袋に行くと、「おお、都会!」って感じで(笑)。
それと僕の母親が、虫プロのそばで雀荘をやってたんです。お客は虫プロの人ばかりで(笑)
そんな時代もありました。いろんなことが忘れられないですね。

—— 虫プロに入ったきっかけは、阿部進さん【4】と伺いました

丸山:当時、手塚さんが人がいなくて困ってるらしい、まだアニメーションを誰も知らないから人が集まらない、誰でもいいから必要だって話があって、「お前行ってこい」って言われて。
西武線に乗って池袋から富士見台行って、その日から1週間ずっと泊まり込みです。相性が良かったんですね(笑)。
アニメーションってわかんないし、はっきり言って興味もなかったし、何をやるかわかんないけど、行った途端、いろいろお手伝いの場がいっぱいあって、なにやれあれやれこれやれと言われて「はいはいはい」(笑)。
訳もわからずにやることは山ほどあったんで、ずっとそのまま現在に至るというか、そのまま居ついちゃった。
手塚さんというか、虫プロに行かなかったら多分アニメーションをやってなかったでしょうね。

—— アニメを知らなかったとおっしゃられましたが、映画やテレビはお好きだったのですか?

丸山:映画とかテレビはものすごく好きで観ていました。手塚さんもアニメというものの、やっぱ映像をかなり意識していた方で、「この映画がどうのこうの」とかって話されていましたね。
子供の頃にアンドレ・カイヤット【5】の映画『眼には眼を』【6】を観て、さっぱり訳がわかんなくて何だこれはと。こんな難しいというか不愉快っていうか、なんかアンビバレンツになる気持ちっていうのは「すごいな」と思いました。
そう思う反面、バンジュン(伴淳三郎)【7】清川虹子【8】堺駿二【9】エノケン(榎本健一)【10】なんかのアチャラカ映画【11】もものすごく好きで。
中学から高校にかけては、そんなどちらの映画も「面白い」と思う自分の感性はおかしいんじゃないか?本当に好きなのはどっちなんだ?」とも思ったのですが、「でも、どちらも好きなんだからしょうがねぇよなぁ」と(笑)
それがいまだに尾を引いているのかな。アチャラカ的な面白さが大好きだけど、真面目というか不安なことにもすごく興味がある。
手塚さんはその点、お医者さん的な哲学があるけれど、子どもにもわかりやすいようにかみ砕いてどのようにも表現できる人で、「手塚治虫はいいな」と思います。でもそれに気づいたのは相当歳をとってからでしたけど。(虫プロに)入ったばっかりのころは、「なんだかめんどくさいオヤジ」ってくらいにしか思ってなかったですから(笑)

—— アニメーション制作に携わるようになり、脚本をご自身で担当されたり、文芸面のチェックをされていますが、そのきっかけは?

丸山:映像が好きなんで、監督になりたいなと思った瞬間はあったんです。ただ虫プロに入ったら、周りにりんたろうさん【12】だとか平田敏夫さん【13】とかすごい人がいるんで、自分はそこまではできないなと。だから、彼らのお手伝いをしたいと。
監督やったりシナリオを書いたりは専門の人におまかせして、その人たちがやりやすいというか、物が作れる状況を作るのが僕の仕事だ、って思ったのはいつからだったのかわかりませんが、自然とそっちの流れになりました。
昔は今のようにビデオがなかったけど、当時の映画館は入れ替えがないので、ずっと同じ映画が観られたんです。そうすると、大体全部頭の中に残るので、それを文書で書くんです。要するにシナリオを起こす。シナリオは世の中に出回ってないけど、たまにキネマ旬報なんかに載っているので、自分の書いたものと照らし合わせる。そうすると、自分が書いたものがいかに駄目か、でもシナリオはこういうふうに書けばいいんだってのはわかるわけですよ。
何年も続けていると、シナリオや映画の良し悪しがわかってくるようになる。多分、結果的にはそれがかなり勉強になった。自分で起こしてみると、文章力もだけど、構成のやりかたがかなり具体的にわかります。
ビデオでもいいから自分で起こしてみると、かなりシナリオの勉強になるし、演出の勉強にもなるんじゃないかなと思います。若い人にはぜひそれはおすすめしたいですね。

—— このまま虫プロで続けようって思ったきっかけは?

丸山:続けようと思ってないですけど、続いただけの話で(笑)。でも、辞めた人がいっぱいいるから辞めたくなかったのかな。やることいっぱいあるから居られたというか。ずっと後になってからですね。「これもいいかな」って思ったのは。
仲間ができてくると個人の仕事じゃなくなるわけです。みんなとの仕事になるわけ。この監督と一緒にやれるからいい。この作品をやれるからいい。とかそういう感じで。
虫プロは無くなったけど、仲間と一緒に仕事をやる場としてマッドハウス【14】を作りました。
個人的にどうしようかこうしようかって思ったのは、50歳ぐらいになってから。
若いうちは自分はもっと何かできるかもしれない、もっと何かやりたいことがあるかもしれないってずっと思ってたんだけど、50過ぎて60になって、もう潰しがきかないから、もうこれでいいかと思ったときから、「もしかするとこれ、好きでやってるのかもしれない」って思い始めて。
それはアニメが好きだということとは、ちょっと違うんですよ。
アニメーションが好きなのは、多分個人作業じゃないからです。あくまでもチームがないと物が出来上がっていかないんですね。
毎回チームが違ったりすると目新しくなる。コイツ面白いとか、この作品面白いとか。そういう面白さがやっと見つけられるようになったのが、マッドハウスの後半あたりからですね。
「しょうがないか、このまま年とってもいいや」って(笑)

—— 手塚治虫さんはどんな方だったんでしょうか?

丸山:どんな方だったんでしょうね、わかりませんね(笑)
すっごくいい人なんだけど、すごくわがままで、すごく乱暴なところもあるし、かといって、それだけかっていうとそんなことは絶対なくて。
しょっちゅう叱られるんですよ。言ったこと通りにやらないと叱られました。でも言った通りやっても叱られるんです。「誰ですか!これをやったのは!」って(笑)
「言った通りやりました」っていうと、「僕はそんなこと言ってません!」(笑)
最初の頃は、「なんだろ、このオヤジ」って思いましたね。
でも最近すごく思うんですよ。「段々に似てきてる」って(笑)。ほとんど同じことをやってるって。 だって、昨日言ったことを今日もそう思ってるとは限らないんですもん。考え方が変わっちゃったり、ものによっては違ってくることがよくあるわけじゃないですか。
その時にそういったってこと覚えてないときもあるし。実は覚えているけど「違ってる」と言いたくないから「そんなこと言ってません!」っていうところもあるし、そこはもうなんか段々似てきているというか、受け継いでいるのかもしれませんね。
でもそういう意味では、自分に素直なんだと思うんですよ。困ったもんだなと思いますけど。
ある意味、虫プロの、手塚さんの何かをDNAとして、自分はもう取り込んじゃったのかなって、そう思うことがあります。
いろんな意味で、日本のアニメーションは手塚治虫ありき、ではないかなと思います。

—— 虫プロの後にも手塚先生原作の『ジェッター・マルス』【15】『ユニコ』【16】『火の鳥』【17】『陽だまりの樹』【18】『メトロポリス』【19】など作られていますが、手塚作品を残したいという思いが?

丸山:あります。初期に手塚さんを知らなかっただけにすごくあります。「勉強してなくて申し訳ございません」みたいな気持ちがすごくあって。 実は『鉄腕アトム』って僕は嫌いだったんですよ。
当時アニメーションなんてのはやる人もいなくて、お金もなくて、3年か4年に1本東映動画【20】が映画を作ってるぐらいの能力しかないのに、週一で『鉄腕アトム』を作るという。
誰が考えても無茶苦茶で乱暴で、ワガママで、本当にどうしようもないオヤジだと思うんですよ、手塚治虫って。
でも、それを「やります!」って彼がやったから今があるわけじゃないですか。
若いからできたし、僕らも若いからついていけたんだけど、あの手塚治虫のエネルギーというか破天荒ぶりがない限りはできなかった。当時の手塚治虫がやったことっていうのは、あり得ないことです。
僕らは手塚先生が漫画を描いたお金から給料をもらってもらえてたんです。十分豊かな生活ができていたから続けられた。
そういうことをやっちゃった、やれた手塚さんの凄さってのは、これはもう一生忘れないし、今でもその恩義を感じています。

『鉄腕アトム』って、何か元気いっぱいの健康な男の子で自分の性に合わないと思っていたんですよ。
でも、それに準じた作品を色々やっていた時にハッと気づいたんですけど、実はサーカスに売られた子なんです。ようするにマイノリティなんですよ。健康で元気で、ひたすら物を破壊するロボットじゃないんです。
そういうのを手塚治虫は描くんですね。
だから手塚さんを当時の僕が誤解していただけで、手塚治虫に対する考えかたとか見かたが変わりました。「尊敬」とはちょっと違うけど。
虫プロで育てられた数年間が、骨だったり肉だったりするのかな。富士見台にいた時期っていうのが全てのコア。それだけは、死んでも持っていくものだと思っています。いい時代でした。

—— 『あしたのジョー』についてもお伺いします

丸山:企画室にいた時期があって、ちょうど『あしたのジョー』【21】の漫画が始まって、僕の好きなちばてつやさん【22】だから「コレやりたい!」って。
それで、麻雀友達の出﨑統【23】に原作を見せて、「『あしたのジョー』をやりたい!ちばてつや大好き!」って話したら、「パイロット【24】作っちゃおう」って。勝手に会社の了解も取らずに統ちゃんが原作をコピーしてレイアウトした絵コンテを作って来たんです。今、それが残ってたら凄いと思うんだけど(笑)
その時、出﨑統が言ったんですよ。「丸さん、これ止まっていても大丈夫。観れる」って。
それが最終的に、出﨑統が止め絵を多用していくきっかけですね。
原作をコピーしてレイアウトしたもので実際にパイロットを作ったときに、これでいけそうっていう実感して。
今までやってきた彼の演出論とも全く違うけど、そこで「出﨑統」が生まれた気がします。
でも、最終的なパイロットは、虫プロじゃなかなか難しかったんです。主に手塚さんの絵を描いていたので、等身が小さかったり、顔が大きかったりしていて。
もうちょっと劇画的なスタイルにしたいっていうことで、『巨人の星』【25】をやってたジャガードの荒木伸吾さん【26】斎藤博さん【27】ところへ行って一緒に作ったのがそのまま本番になって行きました。虫プロのスタイルを逸脱していくというか。でも考えてみるといつもそれやってる気がしますね。 『幻魔大戦』【28】を作ったときも、劇場映画のキャラクターは手塚治虫か松本零士【29】石ノ森章太郎【30】かって時代に、大友克洋【31】でやっちゃうみたいな。あんな絵を描く人は誰もいなかったんですよ。でも野田卓雄【32】さんを中心に集まってもらって、あの絵に挑戦してもらいました。今までやってきた絵とは全然違いますからね。
長年やっていると、そういうターニングポイントがあるんですね。
それはすべて、虫プロがあったからだし、『あしたのジョー』があったから。
それが今に繋がっているのだと思います。

—— 原作者の方々とのお付き合いで心がけていることはありますか?

丸山:ぜんぜん心がけていません。なんでも作るからには好きにならないといけないとは思うんですよ。
「好きだからこの原作をやるんだ」って。仕事ってのは好きな人の方が上手いんですよ。仕事の上手い人ってのは「好きなこと」を早く見つけることが得意な人。
中身的に言うと、このキャラクターが好きだとか、この監督が好きとか、この絵描きがいいとか、何でもいいから好きなことを早く見つければ仕事も楽しいじゃないですか。
基本的に原作ものをやる以上は、原作者さん全部好きだし、尊敬しているし。
ラッキーなことに、ちょうど好きな仕事が来る。というか選べています。
「これ嫌だな」っていうのは無くはないですけど、その時は「この通りやんなくていいですか」って聞くし、「いいですよ」って言われたら、好きな方に寄せ付けるとかね。
それと、原作に合う監督。「こういう原作やってるんだけど、こうじゃなくてこういうことやりたいんだ」っていうと「面白いね」って言ってくれる人とやる、それはもう常にやっています。

音声版では、更にいろいろな話が出てきます。
是非お聴きください。

プロフィール

丸山正雄(まるやま まさお)
プロデューサー。日本のアニメ業界の黎明期から活躍している。1965年に虫プロダクション(旧)に入社。1970年にはTVアニメ『あしたのジョー』を世に送り出した。1972年にマッドハウスを設立。数々のTVアニメやOVAを手がけた。劇場映画では、今敏監督の全作品『PERFECT BLUE』(97)、『千年女優』(02)、『東京ゴッドファーザーズ』(03)、『パプリカ』(06)を企画・プロデュース。2006年には細田守監督の『時をかける少女』をプロデュースし、次作『サマーウォーズ』も担当する。片渕須直監督作品『マイマイ新子と千年の魔法』、『この世界の片隅に』にも、企画として立ち上げから携わった。現在はMAPPA代表取締役会長、スタジオM2代表取締役社長を務める。

登場する作品名・人物名等の解説

【1】虫プロダクション
練馬区富士見台に所在したアニメーション制作会社。通称・虫プロ。1961年にマンガ家でアニメーターでもあった手塚治虫が設立し、1973年まで活動したアニメスタジオ「株式会社虫プロダクション」(旧)と、1977年に旧虫プロの労働組合を母体として設立された「虫プロダクション株式会社」(新)がある。ここでは虫プロダクション(旧)を指す。
虫プロダクション(旧)には、丸山正雄氏をはじめ、出﨑統氏、芦田豊雄氏、川尻善昭氏、杉井ギサブロー氏、高橋良輔氏、富野由悠季氏、安彦良和氏、吉川惣司氏などが在籍していた。この虫プロダクション(旧)で、1963年に制作された日本初の30分枠連続TVアニメ『鉄腕アトム』は、日本のアニメビジネスの先駆けとなった。
※当サイトのアニメーションコンテンツ「練馬アニメーションサイト」内の「練馬のアニメスタジオの遺伝子 虫プロダクション編」でも詳しく紹介しています
【2】『鉄腕アトム』
虫プロダクションが制作し、1963~66年まで全193話が放送されたTVアニメ。日本初の30分枠連続TVアニメでもある。手塚治虫氏の同名マンガが原作。アトムは天馬博士が交通事故で死亡した息子のかわりとしてつくったロボット。御茶ノ水博士に引き取られ、人間のように心を持ったロボットへと成長していく。
原作・演出:手塚治虫 演出:杉井儀三郎、山本暎一、富野喜幸(現・由悠季)、出﨑統ほか
【3】手塚治虫(てづか おさむ)さん
漫画家・アニメーション制作者。「鉄腕アトム」、「ブラック・ジャック」、「火の鳥」など数多くの代表作を持ち、〈漫画の神さま〉と評された。1946年に「マアチャンの日記帳」(4コママンガ)でデビュー。1947年の描き下ろし単行本「新寶島」は大ヒットとなる。1950年からはマンガ雑誌において「ジャングル大帝」、「鉄腕アトム」、「リボンの騎士」などの作品を次々と発表する。アニメーションに興味を持っていたことから、東映動画(現・東映アニメーション)より 「ぼくの孫悟空」を原案とする長編アニメ映画『西遊記』(60)制作の企画打診がありこれに参加。1961年には自らアニメスタジオ「株式会社虫プロダクション」を立ち上げた。ここで、1963年から日本初の30分枠連続TVアニメ『鉄腕アトム』などの作品を制作。手塚氏はその後もマンガ家としても精力的に作品を発表し続けた。1989年逝去。
※当サイトのアニメーションコンテンツ「練馬アニメーションサイト」内の「練馬にいた!アニメの巨人たち」第21回第22回第23回と、「練馬のアニメスタジオの遺伝子 虫プロダクション編」では、手塚治虫氏についても詳しく紹介しています
【4】阿部進(あべ すすむ)さん
教育評論家。「カバゴン」の愛称で、精力的に教育活動を行う。手塚治虫氏、寺山修司氏らと「現代子どもセンター」を創り、新教育運動を提唱した。丸山氏は、その「現代子どもセンター」でアルバイトをしていた。
【5】アンドレ・カイヤット
フランスの映画監督。1942年に『貴婦人たちお幸せに』に映画監督としてデビュー。弁護士だった経験を生かした作品を多数発表。『裁きは終りぬ』(50)、『われわれはみな暗殺者』(52)、『洪水の前』(54)は「法廷三部作」と呼ばれている。
【6】『眼には眼を』
1957年に公開されたフランス映画。シリアの砂漠を舞台に、フランス人医師に診療を断られ妻を失った男の復讐が展開される。 原作:ヴァエ・カッチャ、監督 ‏: ‎アンドレ・カイヤット、出演:クルト・ユルゲンス、フォルコ・ルリ、レア・パドヴァニ
【7】伴淳三郎(ばん じゅんざぶろう)さん
コメディアン、俳優。戦前から昭和期に活躍した。愛称「バンジュン」。1951年に出演した『吃七捕物帖・一番手柄』に出演した際のセリフ「アジャジャーにしてパーでございます」が大ウケ、短縮した「アジャパー」が大流行したのをきっかけに売れっ子スターとなり、『二等兵物語』シリーズや『駅前シリーズ』などの喜劇映画で活躍する。一方、シリアスな演技も評価されており、1964年の『飢餓海峡』では老刑事役で毎日映画コンクール男優助演賞を受賞している。
【8】清川虹子(きよかわ にじこ)さん
女優。戦前から昭和期に活躍した。伴淳三郎や榎本健一(後述)らと並ぶ喜劇役者としても知られる。代表作に『阿波おどり狸合戦』(54)『エノケンの天国と地獄』(54)『女親分 喧嘩渡世』(69)『楢山節考』(83)など。1950年代の東宝の『サザエさん』シリーズでは、磯野フネ役でレギュラー出演。70年代には『緋牡丹博徒シリーズ』や『極道シリーズ』など、東映の仁侠映画に多数出演した。1996年の『平成狸合戦ぽんぽこ』では、おろく婆の声を担当している。
【9】堺駿二(さかい しゅんじ)さん
コメディアン、喜劇俳優。戦前、戦中は軽演劇界で活躍。戦後、松竹大船に入社し、短編映画『破られた手風琴』(46)で映画初出演と初主演を飾る。1952年にフリーとなり、現代劇、時代劇を問わず、映画や舞台、テレビに出演し、コミカルな演技で売れっ子に。特に、お婆さん役が当たり役となった。
【10】榎本健一(えのもと けんいち)さん
俳優、歌手、コメディアン。戦前、戦中、戦後の演劇界、映画界で活躍し、「日本の喜劇王」とも呼ばれる。「飛んだり跳ねたり」のほかにも、すべったり転んだり、舞台から落ちたり、幕を手だけで登ったりなど、動きの激しさでもしられる。1957年に病気により右足を大腿部から切断するも、精巧な義足を作り舞台・映画に復帰。義足に仕掛けを施した芸までも試している。代表作に、演劇『最後の伝令』(31)『西遊記』(31)『弥次喜多道中膝栗毛』(47)、映画『エノケンの青春酔虎伝』(34)『エノケンのちゃっきり金太』(37)『エノケンの孫悟空』(41)『エノケン・笠置のお染久松』(49)『虎の尾を踏む男達』(52)など。
【11】アチャラカ
娯楽性を重視した演劇のなかでも、スラップスティックの要素を取り入れ、荒唐無稽に仕立てた喜劇を指す。
【12】りんたろう さん
アニメーション監督。1958年に東映動画(現 東映アニメーション)に入社。映画『白蛇伝』(58)では仕上げ、『西遊記』(60)からはアニメーターに転向して動画を務めた。演出家を志望し、虫プロダクション(旧)に移籍、TVアニメ『鉄腕アトム』(63〜66)で演出デビューした。TVアニメ『ジャングル大帝』(65〜66)でチーフディレクターに昇進(この頃までは、「林重行」名義)。その後もTVアニメ『佐武と市捕物控』(68〜69)、『ムーミン』(69〜70、72)などを手がける。その後フリー演出家として、古巣である東映動画のTVアニメ『ジェッターマルス』(77)にチーフディレクターとして参加。1978〜79年のTVアニメ『宇宙海賊キャプテンハーロック』でもチーフディレクターを務め、その第1話の試写を見た東映動画の今田智憲社長(当時)から、劇場版『銀河鉄道999』(79)の監督に指名される。この作品は1979年度の邦画の興行成績第1位となり、当時巻き起こったアニメブームを代表する作品の一つとなった。虫プロダクション時代の同僚・丸山正雄氏のマッドハウスに制作拠点を移し、角川映画のアニメ作品第1弾『幻魔大戦』(83)を監督。2001年には手塚治虫氏の同名マンガを原作とした映画『メトロポリス』を発表、海外でも高く評価された。
【13】平田敏夫(ひらた としお)さん
アニメーター、アニメーション映画監督。1960年に東映動画へ入社、動画マンとして映画『安寿と厨子王』(61)や『わんぱく王子の大蛇退治』(63)などに参加。TVアニメ『狼少年ケン』(63-65)で原画を担当する。その後、虫プロへ移籍しTVアニメ『鉄腕アトム』(63-66)で演出家デビュー。TVアニメ『ジャングル大帝』(65-66)などを経て、CM制作会社へ移り、「レナウン」のCMなどのアニメーターとして活躍する。CMでキャリアを積んだのち、ズイヨー映像、グループタックを経て、1974年にサンリオへ移籍。1981年の映画『ユニコ』で監督デビューした。80年代半ばにはマッドハウスに拠点を移し、映画『ボビーに首ったけ』(85)の監督を務めた他、様々な作品に関わった。2014年逝去。
【14】マッドハウス
1972年に、虫プロダクション(旧)に所属していた丸山正雄氏、出﨑統氏、りんたろう氏、川尻善昭氏などが中心となって設立したアニメスタジオ。当初は、東映動画のテレビシリーズや、東京ムービーのテレビシリーズなどのアニメーション制作を行っていた。80年代には映画やOVAなども手掛けるようになる。TVアニメ『YAWARA!』(89-92)を皮切りに自社制作も行うようになった。TVアニメ『カードキャプターさくら』(89)、『はじめの一歩』(00-02)、『四畳半神話大系』(10)、『宇宙よりも遠い場所』(18)や、劇場用アニメ映画『千年女優』(02)、『時をかける少女』(06)、『マイマイ新子と千年の魔法』(09)、『きみの声をとどけたい』(17)など、高い品質を誇る作品を数多く作り出している。
【15】『ジェッターマルス』
東映動画(現・東映ニメーション)が制作し、1977年に全27話が放送されたTVアニメ。手塚治虫氏によるTVアニメ『鉄腕アトム』の続編として企画されたが、要素と設定を取り入れつつ世界を異にする新しい作品として制作された。だが、『鉄腕アトム』のリメイクという側面もあり、東映動画の制作ながらも、『鉄腕アトム』制作に参加していた旧虫プロ出身者が設立したマッドハウスのメンバーがメインスタッフとして参加している。
丸山氏のクレジットは「シリーズ構成」。
原作:手塚治虫と手塚プロダクション、チーフディレクター:りんたろう、キャラクター設計・監修、作画監督:杉野昭夫
【16】『ユニコ』
1981年に公開された劇場用長編アニメ。手塚治虫氏が1976~79年にサンリオで発行していた雑誌「リリカ」で連載していた同名マンガが原作。アニメーション制作はマッドハウス。 人から愛されると、その人を幸せにする魔法が使えるユニコーンの子供、ユニコの冒険を描いたファンタジー。
丸山氏のクレジットは「設定」。
原作・監修:手塚治虫、監督:平田敏夫、作画監督:杉野昭夫
【17】『火の鳥』
1986年に公開された劇場用長編アニメ『火の鳥 鳳凰編』、1987年に発売されたOVA『火の鳥・ヤマト編』『火の鳥・宇宙編』を指す。
原作は、手塚治虫氏がライフワークとして執筆を続けた同名マンガ。アニメーション制作はマッドハウス。
過去や未来、地球や宇宙を舞台に、永遠に生き続ける人智を超えた存在「火の鳥」を追い求める人々の運命を描く。
丸山氏のクレジットはいずれも「プロデューサー」。
『火の鳥 鳳凰編』原作:手塚治虫、監督:りんたろう、作画監督:さかいあきお
『火の鳥・ヤマト編』原作:手塚治虫、監督:平田敏夫、作画監督:さかいあきお
『火の鳥・宇宙編』原作:手塚治虫、監督:川尻善昭、作画監督:野田卓雄
【18】『陽だまりの樹』
2000年に全25話が放送されたTVアニメ。原作は、手塚治虫氏の同名マンガ。アニメーション制作はマッドハウス。
開国から西洋文明が流入し、倒幕、戊辰戦争へと続く幕末期の日本。正義感が強い下級武士・伊武谷万二郎と、ちゃらんぽらんな性格だが医師として優れた技術を持つ手塚良庵の二人が時代の流れにさらされながらも成長してゆく様を描く。
丸山氏のクレジットは「プロデューサー」。
原作:手塚治虫、監督:杉井ギサブロー、キャラクターデザイン・総作画監督:江口摩吏介
【19】『メトロポリス』
2001年に公開された劇場用長編アニメーション映画。原作は手塚治虫氏の同名マンガ。アニメーション制作はマッドハウス。
いつとも知れない未来。私立探偵のヒゲオヤジとケンイチ少年は、国際指名手配のロートン博士を探して、人間とロボットが共存する巨大都市国家・メトロポリスへやってきた。だが、ロートンの秘密研究所は放火され、現場近くにいたケンイチは、記憶を失った少女・ティマを救うのだが…
丸山氏のクレジットは「企画」及び「制作プロデューサー」。
原作:手塚治虫、監督:りんたろう、キャラクターデザイン・総作画監督:名倉靖博
【20】東映動画(現・東映アニメーション)
日本を代表するアニメーション製作会社のひとつ。代表作には『ドラゴンボール』シリーズ、『セーラームーン』シリーズなど、誰もが知る超ヒット作が並び、現在も『ONE PIECE』や『プリキュア』シリーズなど、世代を超える人気コンテンツを生み出し続けている。
1958年の日本初の長編カラーアニメ映画『白蛇伝』を皮切りに、数々の名作アニメを製作。79年には映画『銀河鉄道999』が大ヒットし、爆発的なアニメブームを引き起こした作品のひとつとなる。コンピュータによるアニメ製作、自社コンテンツの海外販売などにも早くから取り組み、日本のアニメ産業のけん引役ともいえる存在となった。98年には東映アニメーション株式会社と社名変更し、現在へと至っている。
※当サイトのアニメーションコンテンツ「練馬アニメーションサイト」内の「練馬にいた!アニメの巨人たち」第18回第19回第20回と、「練馬のアニメスタジオの遺伝子 東映動画編」では、東映動画についても詳しく紹介しています
【21】『あしたのジョー』
虫プロダクション(旧)が制作し、1970〜71年に全79話が放送されたTVアニメ。練馬区で執筆活動をしていた高森朝雄氏(梶原一騎氏のこと。原作を担当)と、ちばてつや氏(作画)によるマンガが原作。ドヤ街に現れた不良少年・矢吹丈(ジョー)がボクシングに出会い、ライバル・力石徹との対決や死を乗り越え、ボクサーとして成長していく物語。本作では原作の中盤までが描かれている。
丸山氏のクレジットは「設定」。
原作:高森朝雄・ちばてつや、チーフ・ディレクター:出﨑統、作画監督:杉野昭夫・金山明博・荒木伸吾
※当サイトのアニメーションコンテンツ「練馬アニメーションサイト」内「練馬アニメトピックス」では、2014年に開催された「あしたのジョー、の時代展」記念・ちばてつや先生のインタビューや、トークイベントレポートなどを掲載しています
【22】ちばてつや さん
漫画家。半世紀以上を練馬区で過ごし、少女マンガから青年マンガまで幅広く活躍し、ボクシングマンガの金字塔「あしたのジョー」(67-73)や少女マンガ「みそっかす」(66-67/『あかねちゃん』の題でアニメ化)など、数多くの作品を練馬区で生み出してきた。
2017年、日本漫画家協会会長に就任、第22回手塚治虫文化賞特別賞を受賞、練馬区名誉区民として顕彰された。
※当サイトのアニメーションコンテンツ「練馬アニメーションサイト」内「練馬アニメトピックス」では、2014年に開催された「あしたのジョー、の時代展」記念・ちばてつや先生のインタビューや、トークイベントレポートを掲載。「練馬アニメイベント」「練馬アニメカーニバル2018」では、「手塚治虫文化賞受賞記念 ちばてつや/マンガとアニメと」レポートを掲載しています
【23】出﨑統(でざき おさむ)さん
アニメーション監督。1943年東京都生まれ。学生時代から貸本マンガ家として活躍。1963年に虫プロダクションに入社。翌年にはTVアニメ『鉄腕アトム』の原画担当になる。1970年のTVアニメ『あしたのジョー』で、初めてチーフディレクターを務める。1972年にはアニメ制作会社マッドハウスの設立に参加。TVアニメ『エースをねらえ!』(73-74)、『ガンバの冒険』(75)『家なき子』(77-78)、『宝島』(78-79)など多数の作品に関わる。1979年には完全新作の映画『劇場版 エースをねらえ!』で、長編映画を初監督した。1980年、TVアニメ『あしたのジョー2』制作を機にマッドハウスを離れ、スタジオあんなぷるを設立。TVアニメ『スペースコブラ』(82)、映画『SPACE ADVENTURE コブラ』(82)、『ゴルゴ13』(83)を発表。『おにいさまへ・・・』(91)からは手塚プロダクション制作作品にも関わるようになり、1993年からOVA『ブラック・ジャック』を手掛ける。2000年代には美少女ゲームが原作の映画『劇場版AIR』(05)、『劇場版CLANNAD』(07)など、自らの新境地となる作品を監督した。2011年 逝去。
※当サイトのアニメーションコンテンツ「練馬アニメーションサイト」内「練馬にいた!アニメの巨人たち」第5回第6回第7回第8回では、出﨑統監督をとりあげています
【24】パイロット(フィルム)
映画やTV作品などの制作に先んじて作られる試験的な映像のこと。
スポンサーや放送局などへのセールスを目的としたもののほか、海外では連続TVドラマの第1話を、パイロット版として制作するケースもある。
【25】『巨人の星』
1968~1971年に全182話が放送されたTVアニメ。梶原一騎氏(作)・川崎のぼる氏(画)による同名野球マンガが原作。努力と根性で身に着けた魔球・「大リーグボール」を武器に、プロ野球・読売巨人軍の「星」となるべく奮闘する星飛雄馬の姿を描く。
原作:梶原一騎(作)/川崎のぼる(画)、演出:長浜忠夫、作画監督:楠部大吉郎
【26】荒木伸吾(あらき しんご)さん
アニメーター、キャラクターデザイナー。貸本マンガとして活躍していたが、1963年に虫プロダクション(旧)に入社、TVアニメ『ジャングル大帝』(65-66)にアニメーターとして参加する。1966年に斉藤博氏と共に作画スタジオ「ジャガード」を設立、虫プロダクション(旧)作品や東京ムービー(現 トムス・エンタテインメント)の作品の作画も手掛ける。1970年にはTVアニメ『あしたのジョー』に作画監督として参加。1973年にフリーとなり、TVアニメ『バビル2世』、『キューティーハニー』、『魔女っ子メグちゃん』などの東映動画(現 東映アニメーション)作品のキャラクターデザインで活躍する。1974年に荒木プロダクションを設立。出﨑監督も途中参加したTVアニメ『ベルサイユのばら』(79-80)では、キャラクターデザインと作画監督務める。1986年にキャラクターデザインを手がけたTVアニメ『聖闘士星矢』は大ヒットとなり、自他ともに認める代表作となった。
【27】斎藤博(さいとう ひろし)さん
アニメーター、アニメーション監督。1963年に山本暎一氏の紹介で、おとぎプロから虫プロダクション(旧)に移籍、TVアニメ『鉄腕アトム』の作画を担当する。1966年に荒木伸吾氏と共に作画スタジオ「ジャガード」を設立、東京ムービー制作のTVアニメ『巨人の星』(78-91)の第2話で演出デビューを果たす。1971年にはTVアニメ『天才バカボン』(71-72)後半のシリーズ監督を務めた。その後、ズイヨー映像(のちの日本アニメーション)に参加。TVアニメ『小さなバイキング ビッケ』(74-75)、『みつばちマーヤの冒険』(75-76)、『ペリーヌ物語』(78)、『トム・ソーヤーの冒険』(80)などを手がけた。
【28】『幻魔大戦』
1983年に公開された劇場用長編アニメーション映画。原作は平井和正氏と石森章太郎氏による共作同名マンガ及び、平井和正氏による同名小説。アニメーション制作はマッドハウス。漫画家の大友克洋氏が、キャラクターデザインと原画でアニメーション制作に初めて参加。角川アニメーション映画の第1作。 地球を侵略しようとする破壊者”幻魔”と超能力戦士たちとの戦いを描く。
丸山氏のクレジットは「設定」。
原作:平井和正・石森章太郎、監督:りん・たろう、作画監督:野田卓雄
【29】松本零士(まつもと れいじ)さん
漫画家。1970年代の熱狂的なアニメブームの代表作『銀河鉄道999』や『宇宙海賊キャプテンハーロック』の原作者としても知られる。50年以上も練馬区の大泉に住み、四畳半もの「男おいどん」戦場もの「スタンレーの魔女」など多様なジャンルにおいて膨大な数の傑作漫画を生みだした。2008年には練馬区名誉区民として顕彰された。
【30】石ノ森章太郎(いしのもり しょうたろう)さん
萬画(まんが)家。SFマンガから学習マンガまで幅広い分野で作品を量産し、〈漫画の王様〉、〈漫画の帝王〉と評された。1985年に画業30年を機に「石森章太郎」から「石ノ森章太郎に改名。1989年には、多様なマンガ表現を追求し、無限の可能性を表す言葉〈萬画〉を提唱した。代表作は「サイボーグ009」、「仮面ライダー」、「さるとびエッちゃん」、「人造人間キカイダー」、「HOTEL」など。『仮面ライダー』シリーズを始め、特撮作品の原作者としても活躍した。1998(平成10)年没。
【31】大友克洋(おおとも かつひろ)さん
漫画家、映画監督。1973年に漫画アクション掲載の短篇「銃声」で、マンガ家としてデビュー。代表作に「童夢」(80-81)、「AKIRA」(82-90)など。緻密な描漫画き込みや複雑なパースを持つ画面構成などの作風は、世界中のクリエイターに大きな影響を与えた。1988年には自らが監督を務める劇場用アニメ映画『AKIRA』を制作。国内外で高い評価を得た。その後は、映画『MEMORIES』(総監督/95)、『スチームボーイ』(04) 、『蟲師』(実写/07)、『SHORT PEACE』(オムニバスの1編『火要鎮』を監督/13)など、アニメや実写など映像作品で活躍している。
【32】野田卓雄(のだ たくお)さん
アニメーター・作画監督。伝説的なアニメ製作スタジオ「スタジオNo.1」の設立者で、50年以上のキャリアを持つ。
『タイガーマスク』(69-71)、『ゲッターロボ』(74-75)、『大空魔竜ガイキング』 (76-77)など、多数の東映動画作品で活躍。作画監督を務めた『幻魔大戦』(83)以降は、主にマッドハウス作品にシフト。TVアニメ『TRIGUN』(98)、『はじめの一歩』(00-02)、映画『時空の旅人』(86)、『獣兵衛忍風帖』(93)、『パーフェクトブルー』(98)、『時をかける少女』(06)、『劇場版 ノーゲーム・ノーライフ ゼロ』(18)などに参加している。
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