—— 2001年放送の『百獣戦隊ガオレンジャー』【1】でガオイエロー=鷲尾岳(わしおがく)役でレギュラー出演したきっかけは?
堀江:大学在学中にスカウトされた事務所からの、オーディションですね。その前の『未来戦隊タイムレンジャー』【2】『仮面ライダークウガ』【3】も受けたんですが落ちちゃって。でも、どちらも良いところまでは残ったらしく「次も来てくれ」と言われて。目をかけてもらってたのか、最終みたいなところによばれて出演が決まりました。
それが大学3年の時だったんですが、僕は卒業制作を撮りたくてたまらない人間だったんですよ(笑)。
大泉で夕方まで撮影して、そのまま江古田の(日藝【4】の)編集室に直行して、夜11時くらいまで作業させてもらいました。
—— 1年間続く作品に参加したことを、どのように感じられましたか?
堀江:若かったというのもあるんでしょうけど、1年間も演じていると、だんだんと役が身体に馴染んでいくというか、気持ちもその人になっていくんですね。そういう意味では純粋だったんだなと思います。
俳優人生で一番幸せな仕事だと思います。
また、映画とは違って「何日までにこれを撮って」というシステマチックなものを見られたのは良い経験でしたね。監督として「こうやって作品を作っていくものもあるんだ」と気づけたのは、全部終わった頃でしたけど。
—— 1年間の撮影で、印象に残っていることは?
堀江:撮影の最後、泣きましたね。泣くようなタイプではないですが、それが「1年間」という事だと思います。
最初は「俺がヒーローものを演じるのか」と思っていたのが、まんまとハマったなぁって。そういう意味でも、1年間って大きい仕事でしたね。
—— 『ガオレンジャー』の後も、監督業をしながら俳優の仕事も続けておられました
堀江:『ガオレンジャー』が終わってすぐに、結婚したんです。そして卒業制作『グローウィン グローウィン』【5】を公開したのが同じ頃でした。『ガオレンジャー』のファンが映画を観に来てくれたりもしていたんですが、僕はやっぱり監督をしたかった。だから、俳優は早々に辞めようと思っていました。みんなびっくりしてたけど、なんなら『ガオレンジャー』を最後にしようってくらいだったんです。でも、たまたま俳優の仕事がいくつか来て、子どもも生まれて生活費を稼がなきゃならないし(笑)受けられる仕事は受けようと。
25歳の終わりの頃に『ベロニカは死ぬことにした』【6】の監督のオファーが来て、これは取材もふくめて集中して取り組もうと、タイミングも良かったので俳優を辞めて、監督1本に絞りました。
—— 監督としての、純粋な商業デビュー作、TVドラマ『ハッピーゴーゴー』【7】は、どのようなきっかけで?
堀江:学生時代にバラエティーのADをしていた時に、プロデューサーから「お前、映画を撮ってるらしいな」って言われて。「番組内のミニドラマだけど、これだけ予算があるから1本やってみろ」って戴いた仕事でした。
加藤紀子さん主演で、オリジナル脚本で好きな事やっていいといわれたので楽しかったです。
でも、助監督経験もなかったし、オファーを受けるなんて初めてで嬉しすぎて、プロ意識が薄かったなというのが反省点ですね。
例えば、この俳優さんを美しく撮ることが、この企画の大きな意図だったのを知らないとか、プロジェクト全体で何を狙っているのかという大枠をわかっていないとか。そういうのが反省ですよ。
—— 2006年の『ベロニカは死ぬことにした』は、脚本家の筒井ともみさん【8】がプロデュースした作品でした
堀江:僕の中期の作品で、自分でも上手くいったなっていう『全身と小指』【9】って映画がありまして、それを観た筒井ともみさんから電話がかかってきました。
『全身と小指』は、『グローウィン グローウィン』のような生きるか死ぬかのタブーみたいなのをまたやりたくて、兄と妹の禁断の恋をテーマにしたR-18作品だったんですけど、それを観た筒井さんが「すごく合致した」と言ってくれたのは嬉しかったですね。
—— 『ベロニカは死ぬことにした』と、『グローウィン グローウィン』は、合わせ鏡のようにも見えます
堀江:そういっていただけて嬉しいですね。2002年の『グローウィン グローウィン』から、2006年の『ベロニカは死ぬことにした』の間に結婚して、子どもが生まれたことが自分の中ではすごく大きくて。同じ「自殺」というテーマに立ち向かうことができたのは、その5年間のおかげだと思います。
それは僕にとってもすごく良かったです。
—— 2015年公開の『忘れないと誓ったぼくがいた』【10】も、素晴らしい作品でした
堀江:原作を読んで、思い出って忘れていくものだけど、それが目に見えて消えていくのをビジュアルにしたら面白いなと思ったんです。そういう「忘れることって悲しいな」という感覚を残したいなって。
演出としては、入念なリハーサルをしました。若い2人に(役に)ハマってほしいなと。「小手先で出来る世界じゃないから、相手を想うことについて真摯に考えてほしい」なんて話しながら、お芝居を固めていきました。
—— 2010年に株式会社CORNFLAKES【11】を設立され、映像制作全般に乗り出されましたが、そのきっかけは?
堀江:映画やドラマの監督としての仕事が、その先も安定していくのかな?という不安が20代後半から30歳くらいの頃にあったんです。当時それなりに食べていけてましたけど、40、50代になった時に、職人として生きていくのは大変だなと。それで制作母体を作ろうと思ったんです。
(作品を)バジェットで受けて、その中で自分でできるようなら監督して、作品に向いた監督がいればその人に譲って、僕はラインプロデューサーとして受けていく。そのつもりで立ち上げたんです。
とはいえすぐに仕事が来るわけでもないので、細かく関われる仕事はないかな?と、CGも始めました。CGアーティストを何人か呼んで日々の仕事を回す感じで、たまに僕もCGのディレクターとして入って『戦国無双』【12】とか『三国無双』【13】などに携わった時期もありました。
—— これからやりたいことはありますか?
堀江:個人的な野望としては、オリジナル作品でバズりたいですね。心理的なことじゃなくて、影響力のあるものとして。
長尺の映画かどうかはわからないけど、培ってきたのは物語ですから。
劇映画で、ドラマで、今の若い子も年上の映画界の先輩方も「すごいもの作っちゃったな」って、全世代が納得するバズり方がしたい(笑)。
フォーマットは考えなくていいかな。逆にフォーマットにこだわると失敗すると思います。
舞台がいいのか、CGのゲームなのかわからないですけれど。でも、もう少しで出てくるんじゃないかって気はしています。
—— これまでを振り返って、日藝時代は堀江さんにとってどんな糧になっていると思いますか?
堀江:映画とか映像を目指している人は、入り口にもなるのでそういう学校に行ったほうが良いと思います。仲間もできるし、そういうことばかり考えている人たちと共に過ごせる時間は、かけがえがない気がします。
僕が練馬で過ごしたのは2年間でしたが、学校の外でも中でも仲間に囲まれて幸せでした。
学校に行くのは、オススメです。
—— 最後にメッセージをお願いします
堀江:今はスマホで撮ってなんでもできる、SNSでいくらでも表現できる時代ですから。映像、演劇、デザインに拘わらず、フォーマットにはこだわらず、大小の場を考えないでどんどん表現して発信して良いと思います。
自分にとっての1本とか作品は、年齢関係なく人生に於いて大事です。
そういうものが残せると人の豊かさが変わる、成長させると思うので、もし自分の中で表現したいものがあったら、小さなことからでもぜひやってみてほしいですね。
ありがとうございました。