—— 日本大学芸術学部【1】時代は、練馬区にお住まいだったと伺いました
堀江:大学の1、2年は所沢校舎で、実家から1時間半くらいかけて通っていたのですが、さすがに疲れちゃって。親に下宿させてくれって頼んで、3年生からは桜台に住みました。バイトしてアパート代は自分で出して通っていましたね。
—— その頃の思い出は?
堀江:20年前なのですが、目白通りと西武線の架け替えを一晩でやるというのがニュースになったんです。僕のアパートから近かったので、友達と2人でお酒を持って見物に行ったんです。工事現場の近くで眺めていたんですが、肝心の架け替え工事は時間が掛かっていて、眠くなって帰っちゃったんですよ(笑)
たぶんお酒が飲みたかったんですね。でも、「一晩で架け替えるって凄いよな!」って話していたのを覚えています。今でも目白通りを通ると、当時を思い出しますね。
—— いつごろから、映像制作を意識するようになったのでしょうか?
堀江:小学生とか、けっこう早かったと思います。母が声楽などをやっていた関係で、オペラとかミュージカルとかクラシックのコンサートなんかを聴きに行っていたのですが、もっとリアルなものがやりたいって心が芽生えてきて、レンタルビデオで映画を借りてきて沢山観るようになりました。『ロッキー4』【2】とか『グーニーズ』【3】とか、みんなが好きそうな映画は観ていましたね(笑)。
あと、黒澤明さん【4】の『乱』【5】とかをおじいちゃんに連れられて観て、「日本の映画って面白いんだな」と影響を受けました。
実際に作品作りを意識したのは、中学校で進路を考えたときですかね。
—— 日芸を選んだきっかけは?
堀江:自分としては映画に行きたかったし、大学で映画を学べるのは唯一、日芸だけ(当時)だったんです。そこからは戦略的だったんですけど、大学受験をするとして日大の付属校に行けば日芸へのラインが見えるかな?ってことで、日本大学鶴ヶ丘高校に行きました。
高校では、脚本の真似事みたいなことを始めたのですが、わりと普通の高校で、普通の友達ばかりだったので、映画を作ってみようとはならなかったんです。それで高校の2年生の時に、自分が気楽に始められるんじゃないかと、俳優の養成所に応募して通い始めたんです。ちょっとミーハー心もあったのですが(笑)。
俳優を始めたことが、映画とか芸能に関わる最初でしたね。
—— そして、日芸に入学されました
堀江:大学に入った頃には、俳優としてTVや映画なんかにも出させてもらってとても楽しかったのですが、ちゃんと大学で勉強しようと事務所は辞めたんです。日芸には俳優コースもありますが、卒業制作で映画を作れる監督コースを迷わず受験しました。
今もあまり変わってないようですが、1,2年は教養の授業があって、映画についての座学もありますが、監督コースは最初から実習があって、ビデオを使ってドキュメンタリーや5分短編などを撮っていました。
2年生の終わりごろになると、監督コース、撮影コース、録音コースから相方を見つけてチームを組んで、5分や10分の短編を練習しました。
16mmのフィルムで、ちゃんとダビングまでしてしっかりとした1本を仕上げる15分短編を作ったのは3年生です。
そして、30分以上の長編映画に挑戦するっていうのが、卒業制作でした。
4年間で長短あわせて劇映画は4本くらいしか撮れなかったんじゃなかったかな。
僕は4年生の卒業制作で、(監督)デビューしたいって野望がありまして。
商業ベースに乗るような長さ(結果的に92分)にはめられるよう計算して。そこに行きつけるよう、2、3年生で撮るものを考えて、着実に撮って行って、卒業制作でデビューさせていただきました。
—— 卒業制作でデビューするまでを、戦略的に捉えられていたのですね
堀江:ただ、1年生終わりの学園祭で、僕が憧れていた黒沢清監督【6】と、脚本家の高橋洋さん【7】のトークショーを企画して、実行委員長をしたんです。
その時にゲストの枠に劇団東京乾電池【8】のマネージャーさんがいらしていて、名刺を渡されて「俳優をやってみない?」とスカウトされました。
一度やめてから半年くらいで俳優に戻れて、オーディションを受けたり俳優として出演しながら、大学の実習をやっていました。高校の時みたいにミーハー心がない時の方が、良い出会いがあるものですね(笑)。
—— 学校のカリキュラムの他に、自主制作もされていたのですか?
堀江:2年生の時に8mmフィルムで、26分のコンビニ強盗の映画を作りました。それがちゃんとした初監督作品ですね。その頃の学校の仲間を集めて作った作品です。
3、4年になると学校外の人とも知り合って、仲間が増えていきました。俳優の仕事の時の助手さんとか。
でも、そんなに本数は撮ってないです。学校もあったし、ADのバイトもしていたので。
—— ADの経験も?
堀江:山崎まさよしさん【9】のPVやライブについていました。あと、僕も出演していた『あいのり』【10】のディレクターに気に入ってもらえて、その方の番組のADについていたんです。ADと自主制作をやりながら学校の課題をやっていたので、ハード過ぎましたね(笑)。
江古田に近い桜台に住んだのは、24時間仕事とか映画とか学校のことをやっていたいって流れもあったからですね。
—— プロの世界でやっていくという覚悟は、その頃に決まっていたのですか?
堀江:そうですね。学校の外でもたくさん影響を受けていましたから、他の学生よりは意識が高かったと思います。
卒業制作で監督デビューして、早く作品を作りたいと思っていましたから、卒業制作で長編を撮るための試算をしたんです。すると、90分の作品で500万円くらい掛かると。そこでスポンサー集めに動いて、650万円集まりました。それは、学校の外でたくさんの知り合いができたから、いろんなところにお願いに行けたのが良かったなと思います。
やっていけるかなと思ったのは、卒業制作『グローウィン グローウィン』【11】が完成した時ですね。これは世に出せば、名刺代わりになって広がっていけるかもしれないと。
—— 2002年に公開された『グローウィン グローウィン』は、インターネットで知った「集団自殺サークル」に参加しようとする話ですが、このようなテーマで制作しようとしたきっかけは?
堀江:自分はスリルが好きで、「生きるか死ぬか」みたいな状況に憧れがあるんです。そういうものの先にこそ「生」が見えるというか、そういう題材をやりたかったんです。
そういう状況に置かれた時に、愛は激しく燃えるものだし、人生を考えるじゃないですか。
自分の中の琴線に触れるような物を調べているうちに、その危うさみたいなものから生を感じられるお話を作ろうとなって、自殺を題材にしました。
改めて観なおすと、僕も若いしスタッフも若いし技術も若いけれど、稚拙さが故に純粋というのを感じますね。
仕事で知り合った方から紹介してもらったりして、三輪明日美さん【12】など学生からするとなかなかできないキャスティングができました。
でも、当時500~600万円くらいの映画でも、回収するのは大変でした。映画を公開してDVDを出して、2年掛かってようやく回収できました。映画ってビジネスは大変だなと、23歳くらいで思いました。
—— 各国の映画祭などに招待されましたが、その時の手ごたえは?
堀江:ドイツでキリスト教会のエキュメニック賞【13】をもらったりしたのですが、ヨーロッパや宗教観のある国は、死と生について真剣だったり真摯なんだなと感じました。それがすごく嬉しいというか、自分よりももっと理解が高いんじゃないかなと思わされるくらいでしたね。
—— ありがとうございました。次回もぜひよろしくお願いします
堀江:ありがとうございました。
明日の勇気につながる1作堀江慶監督のおススメ!
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』
(1984年/日本/監督:押井守/原作・高橋留美子/出演:古川登志夫、平野文、鷲尾真知子、藤岡琢也 ほか)
廃墟と化した友引高校で呆けている諸星あたる。いったい友引高校に何が起きたというのか――。
あたるとラムが通う友引高校は、本番を明日にひかえた文化祭の準備で大騒ぎ。だが翌日も、あたるたちは文化祭の準備をしている・・・。実は友引高校、いや友引町は、同じ日を延々と繰り返していたのだ!
堀江:僕の育った世代よりも少し前の作品です、ラッキーなことに劇場で観る機会があって。それから何回観たかなって?ってくらい衝撃的で。
文化祭前の1日が繰り返される若さの退屈な日々から大事なものが見えなくなった男の子が、考えさせられて考えさせられて、大事な人の存在に気づいて新しい1歩を踏み出す。
そんなシンプルな話を、素晴らしいSFと世界観で表現していて、若い頃はそこが好きで何度も観ていました。
でも今、自分がこの歳になって家族ができて思うのは、この映画が好きなのはSF要素だけじゃなくて、学生時代のしっちゃかめっちゃかで明日もわからないような日々の先に、大事なものに気づくという部分も気に入っていたのかなと。
実は卒業制作の『グローウィン グローウィン』のメイクさんが僕の奥さんなんです。結婚して20年になりますが、今も一緒にいるのが幸せだなと。
だから今、この映画を観ると、自分とリンクしたかな。自分の選択は正しかったんだなと、勇気が出ますね。