—— 学生時代を過ごした練馬について、どのようなことを覚えていますか?
橋本:住んでたところも、学校も西武池袋線の江古田駅で、駅近くだったんです。
食べ飲み、遊びっていうのも全部だいたい江古田でやってた感じがあります。
江古田駅南口の商店街のど真ん中に住んでいて、学校も近かったのでいろいろ便利でした。飲食店も今よりも多分多かったんじゃないかな。
武蔵大学、武蔵野音大、そして日芸【1】って、三つ大学が町の中にあって、すごく学生の数も多くて、江古田は「学生街」でしたね。
—— 日本大学芸術学部映画学科に進もうと思ったのはなぜですか?
橋本:小学生の頃から、映画を観るのが好きでした。高校の文化祭で、クラスごとにやる「出し物」みたいなので8mmで映画を作ったりするのを見て、「あ、僕たちでも作れるんだ」と思って。
僕は当時、文芸部だったのですが、映画が好きだったので部員たちを誘って一緒に映画を撮りました。当時は8mmフィルムが主体でしたが、僕らはビデオで撮りました。
それで映画を作るという興味を持ち、「これを本格的にやってみたいなあ」と思って。
当時は映画の学校って今ほど多くなく、「日芸を目指してみよう」と頑張ったんです。
—— 日芸映画学科で学んだことで、覚えていることはありますか?
橋本:ベテランの先生方から、非常にオーソドックスな授業を受けていました。基本から学ぶという意味だったんでしょうけど、例えば「カットはできるだけ割らない方がいい」とか、芝居演技についても「喜怒哀楽をはっきり出しなさい」とか。
僕は新潟出身で、地元ではそんなにいろんな映画に触れあうことができなかったんです。それが東京には名画座もいっぱいあるし、レンタルビデオ屋もドドドって増えてきた時期で、一気にいろんな映画と触れあうことができるようになった。
すると、僕の方がどうもアナーキーな映画っていうか、オーソドックスじゃない方に軸が移っていって(笑)。
なんとなく「学校で学んでることだけじゃ面白くないだろう」という雰囲気になったんです。
だから実習で作品を作ったときも、わざとぶち壊していくっていうか(笑)。そういう所も自分の中にありましたね。
—— その当時、名画座やビデオレンタルで見た作品で、影響を受けたのはどのようなものでしたか?
橋本:日本の映画だと鈴木清順監督【2】の映画にすごく影響されました。「映画ってやっぱり自由だな」というのを学びましたね。
海外だと、サム・ペキンパー監督【3】監督の映画も大好きですね。『ワイルドバンチ』【4】とか初めてちゃんと触れ合って、やっぱりしびれましたね。スローモーションって映画ならではの手法の使い方に「すごい!」と衝撃を受けました。
—— 日芸の授業や実習を通じて得たことの中で、今でも役に立っていることはありますか?
橋本:「自分が楽しくないと周りも楽しくない」だろうし、少なくとも「自分が楽しければいいか」というのは、実習のときからずっと変わらず今もそんな感じです。とにかく「誰かが楽しくないといけない」と思っています。
例えば自分が苦しくても、「出演キャストの方が楽しんでるな」とか、「スタッフが楽しんでるな」と思ったら、「それでいいじゃないか」みたいなところあるんですよね。
幸いにして、僕自身が楽しくないことは今まで一度もなかったです。
だから撮っているときは本当に楽しいですね。
—— 東映に就職、京都撮影所に配属されてみて感じたのはどのようなことですか?
橋本:あの当時はバブル期【5】で、東映【6】も不動産ですごく潤ってて、映画もそんな不調ではない時代だったんです。それで東映が20何年ぶりかに助監督を採ると知って、そこに飛びつきました。幸いに受かって、京都撮影所【7】の配属になりました。
京都撮影所は、聞いてはいたんですけど非常に古色蒼然たるシステムでしたので、徒弟制度っていう言葉が似つかわしいぐらい、先輩の教えを受けて、みんな育っていく感じでしたね。カメラも照明も録音も、各パート全部そういう感じで。『蒲田行進曲』【8】で見たような世界が本当に目の前に広がったので、「あれは誇張ではなく、本当だったんだ!」という、ある意味ショックを受けたのと、そういう世界で働けるっていう面白さ、嬉しさというのもありました。
慣れるまで時間はかかりましたけれども、慣れたらこんなに居心地の良いところは無いなっていう感じでしたね。
「同じ釜の飯」とはよく言ったもので、1本仕事が終わってもバラバラになるんじゃなくて、みんな顔を合わせるんですよ。食堂とか撮影所を歩いていると「今何やってる?」「これやってる」みたいなやりとりが当たり前のように交わされていて、ものすごく繋がりが深い。
撮影所ってそういうものなんでしょうけど、今、そういう場所がなくなりつつある中で言うと、撮影所の中で育った最後の世代に近いと思っています。
この文化っていうのは、昔話でうるせえなと思われるかもしれないけど、みんなに語っていきたいですね。「こういう場所があったんだよ」って。
—— その当時助監督時代のことで印象的なことはありますか?
橋本:雑用というか、それがすごく多いので、本当にそれだけで、ぐるぐるぐるぐる1日が回っているんです。
でも、「それだけじゃ駄目だ」というのはずっと思っていたし、先輩たちからも、「現場をずっと回していると、仕事をしている気分になる。だけど、そうじゃない部分っていうのは、ちゃんと持たなきゃいけない」と言われていました。
技術パートの人たちなんかは、「学校なんか役に立たんだろう」ってよく言われてましたが、作品でついたいろんな監督さんは、「現場の仕事は学校の授業と全然違うし役に立たないこともあるだろう。ただ、学校で学んだことが役立つときは絶対来るから。自分がやりたいと思ってることとかそういうのは絶対来るから、その思いは絶対捨てちゃ駄目だ。学校で学んだことも、学生のときに思ったようなことも捨てちゃ駄目だぞ」というふうなことを、どの監督も言ってくださったので、そういう気持ちでずっとやってきました。
—— そして1997年、沢口靖子さん【9】主演の時代劇ドラマ『新・御宿かわせみ』【10】で監督デビューされます
橋本:これはもう一生忘れないぐらい、すごく印象深かったですね。
監督になったのは29歳だったんです。30過ぎで監督になれなかったら辞めようって本当に思ってたので、だから29でギリギリやれたなっていうのですごく印象に残っています。
あとやっぱり初日の1カット目。
自分の監督作の始まり。生涯もしかしたらこれで終わりかもしれないと思いながらも、最初の初日の1カット目は沢口さんのカットから撮りたいと決めて、現場に臨んだのを覚えています。悔いがないようにやろうって思ったんですね。
次があるとかって誰も保証なんかしてくれない。もしかしたらこれで終わりかもしれないってなったら、もう好きなことを、ともかくやりたいことを遠慮しないでやろうって。
助監督やってて監督になったということで、スタッフはみんな先輩ばっかりだったんですけど、カメラマンから照明さんから録音さんからみんな「何でもやりたいことやればええ。好きなこと言えよ」って言ってくれて。じゃあお言葉に甘えてって結構無茶なことをいっぱい言って、当時ついてくれた助監督に「いや、いくら悔いがないようにって言ったって、これはやりすぎでしょう」みたいなこと言われながら、ともかく好きなことを好き放題やらせてもらいました。今思うとヒヤヒヤすることばっかりですね(笑)。
—— 時代劇と現代劇を交互に撮られていますが、京都撮影所では当たり前な感じですか?
橋本:僕が監督になる前は、時代劇一辺倒だったんですよ。現代劇があってもヤクザものか、時々入る単発の2時間サスペンスものくらい。
それがちょうど僕が監督になり初めた頃に、『科捜研の女』【11】とか『京都迷宮案内』【12】という現代劇の枠がやってきて、時代劇と現代劇両方の柱ができたんです。
それで現代劇の方もやらさせていただいたり、時代劇の方もやらさせていただきました。
撮り方は全然違いますね。現代劇は基本的に町であろうと、例えば通りであろうと走ってる車だろうと「あるもの」を切り取っていきます。
でも時代劇は全部、1から全てを作り込んでいくので、そのままそこにあるものをそのまま生かすことはまずないわけです。それがうまくいったときの快感は大きいです。
現代劇で言えば、その生で切り取っていたものが「これが撮れた!狙えた!」っていうときの面白さもあります。
だからどちらも別の面白さがありますね。
—— 北大路欣也さん【13】や沢口靖子さんら大物俳優の主演ドラマのパイロット監督【14】を任される=俳優からの信頼が厚い、という印象を持ちます。役者さんとの付き合いの仕方で心がけてらっしゃることは?
橋本:やっぱり緊張感は常に持って、「いつもやってるから、これこれこうでいいよね」みたいなふうには絶対しないようにしています。僕もそうだし、俳優さんもみんなそうだと思います。
慣れすぎて、お芝居や演出が小さく収まってしまうのはよくないことだなと思っているので、何回も組んでる人でも、ある程度の緊張感を保ちながらやっています。
—— 橋本監督は『科捜研の女』に第1シリーズから参加。第3、第4シリーズはパイロットを務めています。監督にとって『科捜研の女』はどんな存在ですか?
橋本:パイロットというものをやらせてもらった最初だと思うんですよね。
だからすごく嬉しかったです。でも「3」のパイロットのとき、ああしたいこうしたいという思いが空回りしたのを覚えているんです。「4」で、その反省を活かして力が抜けた感じになって、僕としては「3」「4」でいい感じで、パイロットを務めるスタンスがシフトできたな。という感じがあります。
やっぱり沢口さんがね、非常に可憐でキュートな方なので、当時やってて毎日楽しかったのを覚えています。沢口さんにしか出せない、かわいらしい中に芯がある感じ。かわいらしいとか、沢口さんにそんなこと言っちゃ失礼かもしれないですけど(笑)。
明日の勇気につながる1作橋本一監督のおススメ!
『七人の侍』
(1954年/日本/監督:黒澤明 脚本:黒澤明、橋本忍、小国英雄/出演:三船敏郎、志村喬、津島恵子、木村功、加東大介、宮口精二、稲葉義男、千秋実、土屋嘉男、藤原釜足 ほか)
戦国時代を舞台に、野武士から村を守るために百姓に雇われた7人の侍が、村人と様々な軋轢を乗り越えながら共闘する姿を描く。日本映画の金字塔と呼ばれる時代劇映画の傑作。第15回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞。
橋本:僕が日芸の学生のときに、世界映画史の担当をなさっていた先生が「映画に絶望したときは、ヒッチコックと黒澤を観ろ」というふうにおっしゃっていました。
その当時、僕はヒッチコックも黒澤もそんなに好きではなかったんですけれども、歳をとってきて観てるうちに、両方とも映画作家として素晴らしい方だというふうに思ってきました。
その中から、黒澤明さんの『七人の侍』をオススメします。
何べん見ても、奮い立たせるものがあるといいますか、あの無常観とかそういったものを織り込んであるものの、基本的には「立ち上がる人間たちの素晴らしさ」を描いた映画だと思います。人間の醜さと同時に人間の美しさを描いた映画だと思ってます。
長尺でモノクロ作品ではありますが、あえてこのコロナ禍にドンと家でじっくり観るとするならば、『七人の侍』。
作りものとかCGとか、そういった安易な方向に頼らず、やっぱり生で撮るということにこだわり続けてこの映画を作り上げたということの素晴らしさとすごさ、醍醐味を、驚嘆の目で味わっていただけたらと思います。