—— 練馬区について、思いだすことは?
本仮屋:私たちが日芸(1)に通っていた頃は、1・2年生は航空公園のそばの所沢校舎で、3・4年生は江古田の校舎だったんです。
所沢から江古田に来て、「すごく都会に来たな」というのが一番最初にありましたけど、都内なのにホッとする空気感があって、学校に行くのにのんびりした気持ちに。リフレッシュするのに良い場所だなと思っていました。
私が通っていた頃の芸術学部は、「自分は何者かになれる」と信じて学業を頑張っている人たちが多いし、「自分は絶対特別なんだ」と信じている人たちが集まっていたんです。そういう人たちを受け入れてくれる、街の懐の深さを結構感じていました。
いろんな荷物を持ち歩いていたり、時には不思議な扮装をして歩いていたり、いろんな学部がいろんな制作で街にいることも多かったので、街の皆さんが暖かく受け入れてくださっているなと。
「個性的なまま、普通に自分は生きててもいいんだな」という雰囲気が、芸術学部がある江古田という駅にはすごく漂っていました。
—— 思い出の場所は?
本仮屋:私の「モトカリヤNOTE-ハタチのキモチ-(2)」というフォトエッセイにも登場してもらったのですが、江古田駅の近くに「ピース」というカフェがあって、そこの定食がすごく好きで、学校の合間に良く通っていましたね。
江古田には、つけ麺や羽根付き餃子とか美味しいものも多くて食べに行ってました(笑)
—— メディアの仕事をするきっかけは?
本仮屋:小さい時に安室奈美恵さん(3)に憧れて歌手になりたかったんですけど、母に相談したら「どちらかといえば女優さんのほうが向いてるのでは?」と提案されたんです。歌手になれないの?と寂しい気持ちもあったんですけど、「女優さんっていったいなんだろう?」って思って。
母から「TVに出たり、人前でお話したり、いろんなことをする人よ」と教えてもらって、それでチャレンジしてみようと自分で児童劇団に入ってから、今日までずっと続いてきました。
—— 『スウィングガールズ(4)』出演のきっかけは?
本仮屋:当時はプロダクションに来たオーディションを片っ端から受けて、受かったら出演する、落ちたらまたチャレンジする、というのを繰り返していたんです。その中の1本が『スウィングガールズ』で、オーディションに合格して出演できることになりました。高校1年生だったと思います。
トロンボーンの練習は大変でした。映画ですけど、あれは半分ドキュメンタリーだなっていつも思います。
本仮屋ユイカとしてもトロンボーンは吹けなかったし、私が演じた関口香織もトロンボーンは吹けなかったから、2つの青春が交差する感じが、自分の中で体感としてありました。
最初、マウスピースを渡されて「これで音が出るように練習して下さい」って言われて、ほんとに四六時中、学校にも持って行ってました。ずっと練習していて、唇が腫れすぎてサラダを食べるにもドレッシングがしみるくらい(笑)。そこから楽器を少しずつ、スケール(音階・ドレミファソラシド)を練習して。でも、音階練習はつまらないんですよ。独りぼっちだし、曲にならないし。
ある日、少し吹けるようになって、みんなと合流したんです。私、貫地谷しほりちゃん(5)、上野樹里ちゃん(6)の女子3人はとにかく素人で。他のキャストは吹奏楽部で経験があったので、楽譜を見るところからスタートできる人が多かったんです。そんな中でやっと楽器が吹けるメンバーと合流して、1フレーズだけでも曲に参加できた時は本当に嬉しくて。「たった2小節だけどみんなと一緒に吹けた!曲の一部になれた!これを練習したら全部吹けるようになるんだ!」って思って。そこから2小節、4小節、12小節と増えて行って、「1曲できた。次は2曲目だ」って、みんなと吹ける曲が増えていくのは、すっごく楽しい成功体験でした。
—— 練習を始めてから撮影が終わるまで、どれくらい掛かったのでしょう
本仮屋:1年以上は掛けてますね。春に出演が決まって、2ヶ月くらい練習して、夏の撮影で山形に1、2ヶ月お邪魔しました。秋もずっとみんなで練習して、冬になって雪が降ったらまた山形に行って撮影して。吹けるようにはなっていましたが、レコーディングできる水準には達していなかったので、全部のロケーションが終わってからレコーディングしました。映画、サウンドトラックCD収録されているものすべて、キャスト本人が吹き替え無しで演奏したものです。
贅沢な作品に参加させてもらいました。本当に幸せな財産です。
—— 作品が公開されたときのご自身の感想は?
本仮屋:日本中の人が、自分たちの映画を観てくださっているのを感じたことですね。
最初は自分たちしか知らない作品だったのが、「みんな『スウィングガールズ』を知ってる!みんな映画を観てくれてる!みんなが私を関口って言ってくれてる!」って、作品が人に伝わる喜びっていうのをすごく感じました。
それまでは作る喜びを感じていたんですけど、ちゃんと届いたという達成感・充実感を感じました。
今でもTVで放送される度に反響があり、不朽の名作に出演できるって幸せな事なんだなと。本当に女優冥利に尽きる作品ですね。
—— NHK朝の連続テレビ小説『ファイト(7)』も、オーディションから?
本仮屋:そうです。確か、1,154人が参加したオーディションで選んでもらいました。それで晴れて作品に参加したんですけど、あれだけ長い期間、毎日のように同じ役を演じる経験は後にも先にも『ファイト』しかない。自分なのか、木戸優って役なのか分からなくなるくらいで。
あの8か月間は、「優」として生きていたんだろうなと思うくらい濃厚で、今でも優の体感を追いかけている感じです。
あの時ああいう風に演じていた自分が、今だったらできるかな?どうしたら役と一体化できるかな?って思うくらい、自分と役がくっついていましたね。
—— 長い期間、一つの役を演じるのは、経験として他の作品とは違いますか?
本仮屋:私にとっては全く違います。積み重ねれば積み重なるほど熟成されていくものですし。
そして朝ドラというものは、日本全国の方に元気を届けるための作品という、すごく明確な位置づけと目標設定があります。全てのキャスト・スタッフがとにかくヒロインを盛り上げなきゃ、この子がより良くなるように支えなきゃって、自分に対して矢印と愛を向けてくださっている状況なので、自分が持っている以上の力を出させてもらえるような居場所を常に用意してもらえていました。
それがどんどん積み重なっていくと、奇跡って起こりやすいんだなって体験をしていました。
橋部敦子さんの書かれた脚本も素晴らしかったです。台本を読んだ時に、自分からはちょっと遠い行動、セリフ、心理だなと思ったとしても、現場に入って役者さんが揃って、スタッフさんが支えてくれると、意図せず全て台本に書かれているとおりの行動をすることができるんですよね。
「人間の心理描写が巧みな脚本と、すごいチームに出会うと、こういうことってあるんだな」ということを10代のうちに経験させてもらえたことは、自分の人生にとって大きくて一生忘れないと思いますし、ずっと大事にしていきたい作品です。
—— 大人たちに囲まれた時間というのは、若い方にはなかなか無い環境ですね
本仮屋:先輩方がいっぱい良くしてくださったので、今、年齢を重ねてきたタイミングで、私がやってもらっていたことを次の世代の子たちにさせてもらえたらなと思います。
—— 素晴らしい作品に次々と出演されている中、日芸に行くという選択をしたのは?
本仮屋:実は大学に進学するのは、小学生の時から決めていたことなんです。
小学生で芸能活動をスタートして、初めていただいたレギュラーが、NHKの小学校5年生の理科の番組『わくわくサイエンス(8)』でした。NHKの方と毎週お仕事をさせていただいていくなかで、「大人って素敵だな。このスタッフさんたちカッコイイな。どうしたら自分もこうなれるんだろう?」と思って、質問したんです。そうしたら「それは大学に行くことです」って言われて。「なるほど、大学に行ったらこういう大人になれるんだ!」と、女優としてスタートした段階から大学進学を視野に入れて、高校も選びましたし、テストの対策もやっていました。
日本大学芸術学部は、演劇学科と映画学科のどちらでも演技を学ぶことができる。どっちに行こうかなと思った時に、「より人と深く関われる方を選ぶ」という理由で演劇学科を選びました。
というのも、小学生の時から仕事を始めたので、「同世代と関わってきていない。やらなければいけないことをパスしちゃったのではないか」という引っかかり?やり残し?ちょびっとコンプレックス?みたいなものを感じていて、社会に出る前に、それをちゃんとクリアしたいなと。
当時はまだ演劇の経験がなかったので、映像作品よりも稽古期間の長い演劇学科だったら、同世代とガッツリ一緒にいろんなことを体験できるんじゃないかなと思って受験しました。
—— 大学では、どんなことを学ばれたのでしょうか
本仮屋:大学では、社会に出る前の練習をさせてもらえたなと思いました。
まず、時間割を自分で決めるとか。
「この提出物は、何々先生に持って行く前に、何々先生に見せて、何々課で判子をもらって持って行く」みたいな、なんでこんな面倒なことがたくさんあるんだ?って思うけど、きっと社会にはそんなことがたくさんあるから、そういうのをいっぱい練習させてもらったなと。
あとは、同じように映像とか演劇とかクリエイティブな事をしたいと思っている同世代の人と出会えたので、その友情がすごく財産ですね。今でも仲が良いです。
芸能生活をしているなかで出会える友達は、同じことに興味を持っていたので楽に付き合える人が多かったんですけど、普通の学校でそういう子にいっぺんに出会えることが無かったので嬉しかったですね。
当時は、みんなこれから社会に出る前で、私も社会に出るけど女優という仕事で生きて行きたい。けど、本当にやっていけるんだろうか?という、心配だし不安な時期。それを共に過ごしてきた人たちなので、すごく特別です。
—— 在学中にも数多くの作品に出演されていますが、両立は大変だったのでは?
本仮屋:今、仕事一本になって思うのは、「よくやってたな」と。中学も高校も大学も、よく乗り切ってたなって。
でも、最初は2つあることがあたりまえで、1本になることの方が怖かったです。悪い言い方をすると、若い私はどっちにも逃げ場があると思っていたなと。
仕事が上手く行かなくても、「でも私は学生だし」って思えていたし。学生が上手く行かなくても「でも私は仕事があるし」って。良くないけどどちらも逃げ場にしながら、なんとなくバランスを取ってやって来たんじゃないかなと思います。
ただ、私は舞台制作がしたくて日芸に入ったのですが、結局単位が足りなくて、舞台制作は一度も出来ずに卒業しちゃうんです。
実技の勉強が多くて、その単位を落としてしまって舞台制作に参加できなくて。
それで当時の私が「卒業できない」って嘆いて落ち込んでいたら、理論・評論(理評)コースの先生が「こっちに来たら違う方向で卒業できるかもしれないから一緒にやってみよう」と声を掛けてくれたんです。
それで、演技コースから理評コースに移って、今度は実習系から怒涛の座学。心理学とか、1人でも単位を取れるものとかでスケジュールを組みました。演技コースのみんなは卒業制作ですけど、私は卒業論文を書く。でも論文なんて書いたことなかったから、「どうしたらいいんでしょう?」って、毎日のように先生のところに相談に行きました。それで無事卒業できました。
この時に、人生の優先順位を決めながら生活するということも学びました。
日芸で舞台を作りたいのか、卒業したいのか、仕事をしていきたいのか。
私の中では、これから先、女優としてやっていけるのなら舞台はどこかのタイミングでチャレンジできる。だったら、今いるメンバーと一緒に卒業したいと思ったんです。
—— 第8回の収録はこれで終わりますが、一言いただけますでしょうか
本仮屋:青春時代の話をすると恥ずかしいことばかりで、自分でもヒヤヒヤしましたけれど、喜んでいただけたら幸いです。
次回もよろしくお願いします。