岩澤尚子(映画学科理論・評論コース卒業)
日本大学芸術学部が2021年に創設100周年を迎えた。現在の場所に移転したのは1939年のことで、以来70年以上江古田の街に根を張っている。映画学科を始め8つの学科からなる芸術学部は「日藝」というブランドを確立し、100年の歴史のなかで、このコラムには到底収まりきらない程数多くの映像人を輩出してきた。
映画監督・脚本家の
三谷幸喜【1】、
宮藤官九郎【2】、映画監督の
深作欣二【3】、
平山秀幸【4】、アニメーション映画監督の
富野由悠季【5】、
片渕須直【6】、俳優の
真田広之【7】、
船越英一郎【8】など。そして監督・演者だけではなく、多岐にわたる映像関連業種で脚本の
市川森一【9】、
野沢尚【10】や撮影の
阪本善尚【11】、
柴崎幸三【12】、
笠松則通【13】をはじめ多くの日藝出身者が活躍している。*敬称略
錚々たるお名前を書き連ねた後で虎の威を借りるようで気恥ずかしいが、かくいう私も日藝出身で、現在は映画宣伝に携わっている。在籍していた学科は7期上の先輩に
佐藤隆太【14】、同期に
藤井道人【15】、4期下の後輩に
池松壮亮【16】がいる、映画学科である。
私が通った映画学科の理論・評論コース(現在は脚本コースと統合されて映像表現・理論コースになっている)はひとり黙々と勉強に勤しむ集まりだったので、秘かに「ぼっち」コースと呼んでいた。制作実習はなく座学中心の授業を組み、日本映画や外国映画の歴史など映画を多面的に学んだ。中でも好きだったのは、ホールで映画を観て批評を書く授業だ。大きいスクリーンで映画を丸々1本鑑賞することのできる至福の時間だった。
そんな学内の雰囲気は、きっと外部の方が思っているほどハチャメチャではなく、ほどほどに奇天烈。真面目な子もはっちゃけた子もいて、流行を追ったファッションや独自路線の子もいれば、お母さんが買ってきたような服装の子もいた。だからといって派閥ができているわけではない。要は、なんでもアリで、互いの〈好き〉が共通していたり理解していれば仲良くつるむ。「外見も性格も関係なく、〈好き〉があればそれでいい」学内はとても居心地が良かった。
私が在籍していた当時は1・2年を所沢校舎、3・4年を江古田校舎だったため、THE先輩・THE後輩という関係性が薄かったのも大きかったと思う——単位を落とした先輩はいたが。
授業の記憶は勿論あるが、授業以外の記憶の方が鮮明に思い出される。仲間と短編の自主制作に励んだこともあれば、撮影に参加したこともあった。
旧食堂階下にあった部室郡の雑多な雰囲気や凝縮された香りも好ましかったし、江古田近辺に住む学友たちと飲み明かした夜も数知れず。胃酸の苦みがそのまま青春のあまずっぱさとして記憶に沁みこんでいる。
入学時のオリエンテーションで当時の教授が語ったことが忘れられない。
「とにかく本を読み、映画を見てください。」本当に短い挨拶だった。もっと何か説明してほしかった。けれど、「0からの発想」は、何もないところから生まれるものではなく、過去に自らが触れた何かが誘発剤となり、新しいアイディアを生み出されていくものだと私は考えている。何かを発するには、それ以上に受け入れ、蓄積することが必要なのだ。
だからこそ、映画を観、語るときの引き出しとして、これまで何を吸収してきたかが重要になる。それは本、映画だけでなく、学校内外で過ごした青春もひとつのファクターになっている。当時感じた嬉しさも、痛みも、後悔、ですら今の自分を形成する血肉となっている。
改めて「日藝」とはどんな学校だろうか。
未来のクリエイターたちを〈玉石〉と評すのは適切ではないだろう。しかし、玉だろうが石だろうが、日藝には自分が研磨すべき対象を見定めている人が多い。自分の〈何か〉を見据え自己表現に努める姿勢は、表舞台に立たずとも美しいと思う。それを支え、受け入れ、伸ばす土壌が日藝にはあり、学生たちが互いに切磋琢磨する環境があるからこそ、前述したように数多くの人材を輩出してきたのではないか。
そうして日藝からはばたいた方々が映像業界を支え、自身もその一翼をにな——いや、それはおこがましい——一羽毛として生えているかもしれないと思うと、幸せなことである。