幕田けいた
フリーライター
1992年に亡くなった作家・
松本清張【1】は、誰もが目を背けていた日常の闇や、それを追う社会正義を題材とした「社会派推理小説」と呼ばれるジャンルの確立者である。
1951年に懸賞小説に入選した処女作
『西郷札』【2】で文壇デビューを果たした清張は、1953年に
『或る「小倉日記」伝』【3】が芥川賞を受賞すると九州から上京。東京では、まず杉並区荻窪に寄宿し、翌54年に一家も上京して
練馬区関町【4】に転居。1957年からは上石神井に転居して1961年まで住んでいた。
清張の初期の大ヒット作
『点と線』【5】や
『ゼロの焦点』【6】、
『砂の器』【7】は、この練馬時代に生み出されている。リアルな社会問題に切り込む作風が巻き起こした社会現象的ブームは、一部の評論家から「褒められすぎ」と批判をされるほど。この人気の背景にあったのが、清張作品を原作とした映画の存在である。
それでは練馬時代の清張原作の映画化作品を俯瞰してみよう。一番、最初の映画化は、上石神井に越した1957年に公開された
『顔』【8】(大曾根辰夫監督)。これを皮切りに翌58年には『点と線』(小林恒夫監督)、
『張込み』【9】(野村芳太郎監督)、
『共犯者』【10】(田中重雄監督)、
『眼の壁』【11】(大庭秀雄監督)、
『影なき声』【12】(鈴木清順監督)の5本が公開、
TVドラマは両年で7本【13】という数だ。東京に移った最初の2年で13本という人気ぶりには驚くが、映画界が清張作品に注目したのは単なるベストセラーとしてだけではなく、社会問題に焦点を当てる作風が、リベラルな気風があった当時の映画人とも親和性が高かったのは想像に難くない。
一方、清張も、自作をアピールするために映像化は欠かせないものと考えていたようで、映画界とも積極的に関わっていった。殺人犯がかつての恋人のところに戻ってくるのを待ち伏せする『張込み』(58)製作前、作者の意見を聞くため、関町の清張宅を訪問した脚本家・
橋本忍【14】は、俎上に上がった「刑事は二人で行動するのでは?」との疑問点に対し、「いっしょに警視庁に取材に行こう」と清張から逆提案されたという。これをきっかけに映画は警視庁の協力を得られることになり、清張公認で登場人物設定が改変され2人の刑事が主人公となっている。
この時期の必見作品には、1958年に原作が発表され1961年に映画化された『ゼロの焦点』(野村芳太郎監督/橋本忍・山田洋二共同脚本)がある。夫の失踪をきっかけに、戦後の混乱期を生き抜いた人間たちの秘密が殺人事件とともに暴かれていく物語だ。
1957年に発表され、1978年映画化の
『鬼畜』【15】(野村芳太郎監督/井手雅人脚本)は、高度経済成長期に起きた貧困による子殺し事件を題材にした。映画オリジナルの結末に加え、何より母親役の
岩下志麻【16】の鬼のような壮絶演技が話題となった。
1959年発表、1983年映画化の
『天城越え』【17】(三村晴彦監督/三村晴彦・加藤泰共同脚本)は、過去に起きた「天城山の土工殺し事件」を追っていた刑事が、目撃者だった当時の少年に話を聞いたことから真相が浮き出てくる物語だ。
一連の映画で清張自身が評価していたのは、橋本忍脚本の『張込み』(58)と、浮気中に殺人事件の被疑者のアリバイを目撃してしまうサラリーマンを描いた
『黒い画集 あるサラリーマンの証言』【18】(60/堀川弘通監督)。清張をして「原作を超えてる。あれが映画だ」と言わしめた2本だ。また1961年発表、1974年映画化の『砂の器』(橋本・山田洋次共同脚本)は、戦後のハンセン病差別を背景にしたミステリだが、清張はラストシーンを「映画でなけりゃできない」と絶賛したという。
こうして映画の魅せる力を体感した清張は、映像化をコントロールすべく
野村芳太郎【19】らと1978年に
「霧プロダクション」【20】、1985年「霧企画事務所」を設立するのである。
最初に映画化した『顔』から今春TV放映の新作『顔』
『ガラスの城』【21】(いずれもテレビ朝日開局65周年記念作品)まで、映像化作品は67年で約500本という驚異的な数に上る。もし、あなたが現在も人気の映像作品で清張作品に興味を持たれたのなら、まずは練馬時代に著した初期代表作から読んでみてはいかがだろうか。原作と映像化作品が、相互に影響しあって深化した清張文学の原点を目撃できるはずだ。