とり・みき
マンガ家
60年代から70年代にかけて「自分もマンガ家になれたらいいな」と思いつつマンガを読んでいた少年にとって「ネリマ」という地名は一種の聖地であった。
マンガでも映画でも単なる娯楽享受だけでなく自分もなんとかして「作る側」「送る側」に行きたいと考える者なら、作品はもちろん、そのバックステージにも興味がわくのは当然だ。マンガ家が作品の中につい書いてしまった地名や店名、さらにいまでは信じられないことだが、70年代初期までマンガ誌には作家の自宅住所がファンレターの宛先として記載されており、そういう情報もまた地方のマンガ少年には重要だった。
それらから、私は
手塚治虫【1】や
石ノ森章太郎【2】を筆頭に男性女性を問わず私の贔屓筋のマンガ家の多くが練馬区の西武線沿線に住んでいることを知った。マンガ家だけでなく有名なアニメスタジオもまたこの沿線に点在していた。
おおネリマ!
憧れのマンガ家が住まう夢のような国!
やがて私は上京し本当にマンガ家になってしまったのだが、以来、居住し続けているのは世田谷区である。裏切り者もいいところだ。
それだけではなく、出不精な私は上京後もやや離れたこの区内に足を踏み入れる機会はさほど多くなかった。だが、いまから40年前の1984年3月、私はマンガ方面とはまったく別の目的でこのホールに足を運ぶことになる。
たったいま調べたところによると
練馬文化センター【3】の落成はその前年の1983年ということなので、まさしく出来たてホヤホヤだったわけだが、私がそこを訪れたのも、同じく前年に公開されたある映画が発端となっていた。
その映画とは
筒井康隆【4】原作、
大林宣彦【5】監督の
『時をかける少女』【6】である。リメイクも多い有名タイトルなので詳しい説明は不要だろう。当時の青少年、いや既に成人し、マンガ業界やアニメ業界の片隅で仕事を始めたばかりの私、及び周りの友人たちもまた、この映画の、そして主演女優の虜になった。我々は顔を合わせれば合い言葉のように「
原田知世【7】はいい」と確認しあい、まだけっしてメジャーではなかったそれぞれの仕事の中でも、このスローガンを無節操に乱発していた。
いま思えば我々はまさしく絶妙な時期に彼女に出逢ったといっていい。皆おしなべてプロとアマチュアの端境期にいた。もう少し暇を持て余していたモラトリアムな時期だったら、他の何物も犠牲にして熱心なファン活動に身を投じただろう。逆に既に名前の知れたベテランであったなら、かような顰蹙をともなう暴走は出来なかっただろう。
そんな我々がまず何をしたかというと、同人誌を作った。当時はまだそういう名称はいまほど流通していなかったが、オタクという属性を持つ集団の性(さが)である。この同人誌は即売会などでは販売されず、執筆者以外は『時かけ』の映画関係者(もちろん監督・女優を含む)にのみ贈られた。同人誌というよりは私家本に近い形だった。
そうこうしているうち、
女優の二作目の主演映画【8】制作の報が入ってきた。しかもミュージカルシーンの撮影が都内で行われ、観客のエキストラを募集しているという。これはもちろん撮影のためのものではあるが、同時に集まったファンによる口コミの期待とメディア用のパブリシティを兼ねていた。
その会場が練馬文化センターだったのだ。このとき、私は初めてこの施設の存在と名称を知った。行かない手はない。この情報はさっそく先の面々に共有された。
いまとなってはよく憶えていないが、おそらく公募ではなく、それぞれの仕事先の出版社の取材パスで参加したような気がする。そういうことには業界の特権を使うのがやや嫌らしいところだが、この手の企画では撮影側は満杯の客数を、宣伝部でも取材は多ければ多いに越したことはないので、なんにせよ申し込んだ人はほぼ入れたのではないかと思う。
かくして1984年3月10日、とり・みき、
出渕裕【9】、
河森正治【10】、
ゆうきまさみ【11】、そしてのちに大手出版社取締役社長となるアニメ誌編集者I氏の4名は現場に赴くことになった。日付がはっきりしているのは当時の写真や予定表が残っているからだ。集合は午前のけっこう早い時間だったと思う。ホールでの撮影は確か2日に分けて行われ、この日が取材日も兼ねた1日目だったはずだ。いまでも緑地に立地する練馬文化センターだが、当時は周囲の住宅の密度もまばらで、都内とはいえ「何もないところにいきなりでかい建物が建っている」というのが初見の印象だった。
この日はしかし「最初に主人公が観て憧れるプロのミュージカルの舞台」という設定の撮影がメインだった。舞台上のヒロインは当然別人で、アメリカで修行を積んだ本職の女性ダンサーの方が務めていた。外国人キャストの中にあってなお彼女の踊りはすばらしく、我々は正直「これを知世がやれるの?」と少々不安な気持ちになった。
昼食休憩を入れながら撮影は進んだ。しかし、夕方の終了予定時刻近くになってもお目当ての主演女優は舞台に姿を現さなかった。さすがにこのまま客を帰すのは詐欺である。そう思い始めたころ、最後の最後になって「本日の(客を入れた)撮影は終了しますが、最後に主演の原田知世さんによるミュージカルシーンを通しで皆様にご覧いただきます」とのアナウンスがあった。長時間拘束されたエキストラへのプレゼントということだろう。
先ほどのヒロインと同じ衣装の主演女優が登場し、会場は万雷の拍手に包まれた。そして(我々だけではなかったろう)観客の期待と不安の中、既にその日何度も耳にした音楽がスタートした。
我々の心配は杞憂だった。ナマの知世さんのダンスは先のヒロインと比べてもまったく遜色のないすばらしいものだった。それどころか、要所要所で彼女本来が持つ輝きがその動きに加味されていたのである。音楽が止まると会場はさらなる歓声に包まれた。朝から長く続いた主演抜きの撮影の不満は一気に解消、どころかじゅうぶんおつりが来るものを見せてもらった、という気に誰しもなっていたと思う。ホールを出た我々はすぐには解散しがたく、ゆうきさんの仕事場のある江古田の喫茶店だかスナックだかに移動して、その日目撃したことの反芻を行ったのだった。
以上が私の中における練馬文化センターとの唯一の関わりであり想い出である。
以来、足を運んでいない。