深作健太
演出家・映画監督
映画監督・
深作欣二【1】の青春は、練馬と共にあった。
昭和5年、水戸に生まれた父は、幼少期を戦時中の暗く希望のない世界で過ごした。いつか米軍が上陸した暁には、お国のために死ぬのだと覚悟して育った。しかし15才で迎えた戦後の空気は、少年が想像したものとはまるで違っていた。昨日まで「陛下のために命を捨てろ」と云っていた大人たちは、8月15日を境に「民主主義のために生きろ」と方向転換をする。国も大人も信じられなくなった父は、焼跡の闇市をうろつき、たまたま転がり込んだ映画館の暗闇の中で、映写機が放つ一筋の〈光〉の中に、人生の希望を見つけ出す。スクリーンに映し出されていたのは
『風と共に去りぬ』【2】や
『天井桟敷の人々』【3】といった、戦時中は決して観られなかった外国映画たち。俺たちはこんな豊かな文化を持つ国々を相手に戦争していたのか?焼跡の中の、父の鬱屈とした思いは、のちに広島・呉の闇市の青春を描いた群像劇
『仁義なき戦い』【4】へと結実する。
18才で、水戸一高というエリート校を卒業した父は、官吏や法曹界をめざす同窓生たちとは別の生き方を選び、江古田にある
日大芸術学部【5】映画科へと入学。それが深作欣二と練馬の、最初の出会いとなる。がむしゃらな戦後復興と高度経済成長、すさまじいスピードで変わりゆく街並と景色。そして変わる事のない大人や国の欺瞞、占領軍であるアメリカへの不信。やがて日大を卒業した父は、新興の映画会社であった
東映【6】に入社。東映には時代劇を制作する
京都太秦撮影所【7】と、現代劇を制作する
東京大泉撮影所【8】の2つが今でもある。父は練馬の大泉撮影所に勤務。江古田の下宿で暮らしながら、7年間の助監督生活を経たのち、1961年、31才で
『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』【9】(
千葉真一【10】主演)で監督としてデビューする。
昭和の時代の大泉は、今ではリヴィンオズが建っている場所に、広大な銀座を模したオープンセットがあって、僕も子供の頃はずいぶんそこで遊ばせてもらったものだ。「ほかの会社の撮影所とは違い、大泉は昔、田んぼだからな。掘ったらすぐ水が出るんだ。だから東映の映画はドラマをあまり深掘りしちゃいけない」と自虐的な冗談を飛ばしつつ、深作欣二は大量生産のアクション映画を中心に、生涯で61本の映画を監督する。73年の『仁義なき戦い』シリーズ以降は京都撮影所を中心に活動するが、父の表現者としての根っ子は練馬にあり続けたといっていい。75年、ひさしぶりに古巣の大泉撮影所へ帰って旧知の仲間と一緒に撮った
『仁義の墓場』【11】(
渡哲也【12】主演)は、そんな親父の
ヤタゲタ(映画屋用語でヤケクソ)な情熱に溢れた、実録やくざ映画の傑作である。
時は流れ、世田谷の成城で育った僕は、大学を卒業後、テレビ
『戦隊シリーズ』【13】の助監督として、大泉で暮らす事となる。子供番組の撮影は、朝が早い。生活の基盤を撮影所の近くへ移すべく、実家を離れ、はじめてのひとり暮らし。親父とあちこち冬の練馬の街を巡り、青春時代の話などを聞きながら、一緒に部屋探しをしたのも、今となっては懐かしい思い出である。結局、撮影所のすぐ近くの郵便局の裏に、陽当たりのよいアパートの2階を見つけ、父の車を借りて引っ越しをしたのだが、その時、息子の部屋で祝いの缶ビールを空けて帰る時の、階段を下りる父のさびしげな背中が忘れられない。撮っている映画とは真逆の、あたたかく、優しい人だった。「大泉の風は冷たいからな……あったかい格好をして風邪ひくなよ」そんな親父の忠告は、自分が撮影所で働くようになってから、身にしみて実感するようになる。僕たち親子は、練馬を吹き抜ける、
からっ風に育てられたのだ。
2002年12月。戦争という殺し合いと、自らの青春を重ね合わせた最後の作品
『バトル・ロワイアルⅡ 【鎮魂歌】』【14】。たった1シーンを撮影しただけで、全身を蝕む骨ガンの痛みに倒れ、最前線を離れていったのも、大泉からだった。息子として、プロデューサーとして、「畳の上で死なす親孝行もあれば、撮影現場で死なす親孝行もあるはずだ」と背中を押した撮影だったが、正しかったのかどうかは今でもわからない。
あれから20年。映画はフィルムからデジタルに変わり、映画館もシネコンから配信の時代に移行してしまった。それでも深作欣二の〈映画〉は、今でも変わることなく多くの若者の心を打ち続けている。車で練馬インターを通るたび、変わりゆく街並みを車窓から眺めながら、僕は激動の父の青春時代と、混沌の令和の〈現在〉に思いを馳せる。