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NHKの連続テレビ小説「らんまん」のモデル 牧野富太郎さんってどんな人?

INDEX

①NHKの連続テレビ小説「らんまん」が始まる!

連続テレビ小説 らんまん ロゴ

「朝ドラ」の愛称で長年親しまれてきた、NHKの連続テレビ小説。第108作目となる『らんまん』は、植物学者・牧野富太郎の人生をモデルとしたオリジナルストーリー。
時代は幕末から明治、そして激動の大正・昭和へ――そんな混乱の時代の渦中で、愛する植物のため一途に情熱的に突き進んだ主人公・槙野万太郎(神木隆之介さん)とその妻・寿恵子(浜辺美波さん)の波乱万丈な生涯が描かれる!

NHK連続テレビ小説「らんまん」
放送日:2023年4月3日(月)より放送開始予定
作:長田育恵
音楽:阿部海太郎
主題歌:あいみょん「愛の花」
語り:宮崎あおい
植物監修:田中伸幸
◎キャスト
槙野万太郎:神木隆之介
西村寿恵子:浜辺美波
竹雄:志尊 淳
槙野 綾:佐久間由衣
槙野タキ:松坂慶子 ほか

②牧野富太郎とはどんな人物?

日本の植物分類学を確立した偉人のひとりであり、「植物学の父」とも称される牧野富太郎。 植物をひたすらに愛し、個人でおよそ40万点もの 標本を収集したという、その生涯を追ってみたい。

牧野富太郎 昭和13年11月 個人蔵牧野富太郎 昭和13年11月 個人蔵

植物学者の牧野富太郎は、1862(文久2)年、土佐国の高岡郡佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)で生まれた。幼名は成太郎。実家は裕福な酒造家だったが、幼くして父母と祖父を失い、祖母の手で育てられた。

1872(明治5)年に寺子屋に入り、そのころから植物に興味を持ちはじめたという。やがて時代は幕末から明治へと移り、寺子屋が廃止されると、土佐藩の藩校・名教館に入り、洋学(ヨーロッパの学問)の洗礼を受けた。

学制が公布されると藩校が廃止され、名教館は佐川小学校となる。富太郎はあらためて2年の教育課程を終えると退学し、好きな植物の調査や採集に明け暮れた。小学校を退学したのは、祖母が取り仕切っている家業の酒造業をいずれ引き継ぐつもりであったためとも、小学校の授業が簡単すぎて時間の無駄だと感じ、独学で勉強したかったため、ともいわれる。

植物採集する牧野富太郎 昭和19年頃 個人蔵植物採集する牧野富太郎 昭和19年頃 個人蔵

1880(明治13)年、高知師範学校の永沼小一郎教諭と出会い、本草学(東洋医学に基づいた学問)を志して師事。世は文明開化真っ盛り、日本の自然科学も西洋の影響を受けて大きな進歩をとげていた。いつしか富太郎は「本草学」から西洋科学に則した「植物分類学」に転じ、日本中の植物を網羅した植物図鑑の執筆を夢見るようになっていた。

ヤマザクラ『大日本植物志』第2図版(1900年) 練馬区蔵ヤマザクラ『大日本植物志』第2図版(1900年) 練馬区蔵

やがて二度の上京を経て、東京大学教授の矢田部良吉に認められ、同大学の植物学教室への出入りを許された。矢田部は米・コーネル大学への留学も経験した当時の植物学の権威で、日本の基礎植物学の先駆者ともいえる人物であった。富太郎は専門的な研究をひたすら進め、1888(明治21)年には日本初の本格的な植物図説集『日本植物志図篇』を創刊した。

その後も精力的に研究を進めるも、小学校中退の肩書しかない富太郎は、東京(帝国)大学という大権威との折り合いが悪く、さまざまな障害にぶつかっていく。また最大の援助者であった実家の酒造業が破綻し、本人と家族は貧窮に苦しむが、そんななかでも富太郎は新種の発見、分類と命名などの業績を積み重ね、植物分類学の第一人者となっていった。

大泉自宅前の牧野富太郎 昭和4年大泉自宅前の牧野富太郎 昭和4年 個人蔵

1926(大正15)年には、関東大震災の経験を機に北豊島郡大泉村(現在の練馬区東大泉)に居を定め、愛する植物の研究に明け暮れた。次第に援助者も増え、在野の研究者としての活動をつづけるが、1927(昭和2)年には周囲の勧めもあって65歳で理学博士号を取得。一方で、自身の集大成となる図鑑の編纂も進め、1940(昭和15)年には『牧野日本植物図鑑』が完成した。日本の植物大系を完全に網羅した同図鑑は、現在に至っても植物学を志す研究者の必須資料となっている。

晩年も植物への愛情を忘れず、自宅の庭で観察を楽しみ、ときに寝る間を惜しんで執筆などに明け暮れた。自身が個人的に所蔵していた植物標本だけでも40万点におよぶという。そして1957(昭和32)年1月、94歳の長寿を全うした。

③牧野博士の邸宅跡である牧野記念庭園が練馬区東大泉にあります。

牧野記念庭園

牧野記念庭園は、牧野富太郎博士の邸宅跡地として、1958(昭和33)年から一般公開されている。
1926(大正15)年、まだ武蔵野の面影が色濃い大泉の地に牧野博士は居を定め、自邸の庭でさまざまな植物を育て、94歳で没するまで「わが植物園」と呼んで愛した。
庭園内には約300種類の草木類が生育しており、四季折々で豊かな表情を見せる。なかには、学術的に非常に貴重なものも。
本年(令和5年)4月3日には、牧野博士が実際に使用していた書斎と書庫に、当時の様子を再現する展示が公開される。

【特別インタビュー】
牧野先生のこと、牧野記念庭園のこと

牧野記念庭園に学芸員として勤務する伊藤千恵さんに、練馬区と博士のつながり、牧野植物学の魅力などをうかがった。

牧野記念庭園 学芸員・博士(学術)
伊藤千恵さん

—— 牧野先生が大泉の地に住居を構えられた経緯を教えていただけますか?

引っ越したきっかけは関東大震災での被災を目の当たりにしたためで、郊外に住むことを強く望まれたのは奥様の壽衛さんですね。牧野先生の財産は標本や書籍など、燃えてしまったら一瞬で消えてしまうものが多いので、安全な場所に住みたいと強く願われたようです。知人の方の紹介もあって大泉に移って、牧野先生も一目みて気に入られた、と自叙伝に書かれています。

伊藤千恵さん

—— 牧野先生がこの地を気に入られた理由は?

自然が豊かだった、というのがとにかく大きいと思います。武蔵野の面影を残す雑木林が広がっていた場所なので、そういう場所に自分の家を持てるというのは、植物学者としてはとてもうれしかったのではないかと思います。

花

—— 当時の邸宅内にあった植物で、とくに牧野先生がお気に入りだった植物などは?

おそらく優劣はなく、どの植物も大好きだったと思います。ただ、博士はどの種類の桜も大変好まれたようで、この庭園にあって練馬の名木にもなっているセンダイヤ(仙台屋)は、なんとしてでもここに植えたいと高知の知人の方へのお手紙に書かれているので、お気に入りのひとつだったのではないかと思います。

—— この邸宅の近隣で、牧野先生が植物観察などでよく行かれていた場所はあったのでしょうか?

石神井公園は、採集された植物の標本が残っているので、よく行かれていたようです。日記などでも名前がよく出てきます。また、新座まで歩いて行かれたりもしたようです。あとは西武線沿線だと所沢や飯能へは行かれていますね。より自然の多い山のほうに向かわれたのでしょう。ただ、行かれた場所についての感想などは、日記などにはあまり書かれていませんね。採集された標本などとあわせて見ると、当時の様子が見えてきます。たとえば石神井では、ミズニラという、近年ではあまり目にすることがない植物を採集されているので、当時の石神井にはそれが自生していたことがわかります。
※ミズニラ:ミズニラ科ミズニラ属の多年草で、水辺に自生する。環境省のレッドデータリストで準絶滅危惧種に指定されている。

牧野富太郎像

—— ちなみに、資料を調べると奥様のお名前は「すえ」と「すえこ」の表記が見受けられます。なぜふたつの表記があるのでしょうか。

本名は「すえ」ですが、牧野先生は「すえこ」と呼ぶことが多かったようです。先生が命名されたスエコザサも、その名の通り「スエコ」ですから。
※スエコザサ:イネ科ササ類の植物で、博士はササエラ・スエコアナ・マキノと学名をつけた。記念庭園内には壽衛とスエコザサを讃えた歌碑がある。

牧野富太郎と妻壽衛 個人蔵牧野富太郎と妻壽衛 個人蔵

—— 庭園内で、奥様がお気に入りだった植物や場所などはありますか?

壽衛夫人は、この地に移転されて2年後に亡くなられているので、残念ながらそういう記述は残されていません。ただ、夫人の希望としては「標品館(標本館)をともなった植物園にしたい」という思いがあって、その望みをかなえるべく先生もいろいろな植物を植えたりしていたようです。先生が時間をかけて準備をされて、のちに標品館ができて、やっと壽衛さんの願いがかなった場所になったのかな、と思います。

—— 現在はその標品館は?

ここにあった標本は、現在は東京都立大学の牧野標本館という施設にすべて移されました。あらためて整理もされて、いまでも大事に保管されています。ぼう大な点数ですし、標本を維持するためには温度や湿度を常に管理する冷房設備なども必要ですから、しかるべき場所が用意されたということです。

—— 作家の池波正太郎先生が、この庭園を訪れたそうですね。

お芝居の台本を書くために、牧野先生のご存命中にここを訪問されています。池波先生は、土門拳さんが撮られた牧野先生の肖像写真をご覧になって、その風貌に魅了されたとご自身の本に書かれていますね。
※ご自身の本:『武士(おとこ)の紋章』(池波正太郎/新潮文庫)。武士(おとこ)の生きざまを描いた伝記風の物語8篇が並ぶなか、牧野富太郎がその最後のひとりとして登場する。

—— 牧野先生の澄みきった目が「心を引き掴んで離さなかった」とも池波先生は書かれていました。

その写真とは違いますが、土門拳さんが撮られた牧野先生の写真は本園の展示室にも展示していて、どれも素敵な写真ですね。牧野先生の場合、60歳以降の写真はかなり多いと思います。

伊藤千恵さん

—— 伊藤さんご自身のお話をお聞かせください。植物学に興味を持たれたきっかけは?

もともとは環境問題について学びたいと思っていて、そういう大学に入ったのですが、そこで学んでいくなかで、植物はすべてのベースになるものだという思いが強くなっていきました。そこから、植物についてもっと深く学んでいきたい、それがきっと環境保全にもつながっていくだろう、と考えはじめて、植物学のほうに進んでいきました。

—— 学生時代から『牧野日本植物図鑑』には触れていらっしゃいますよね?

そうですね。植物を調べるときには、もっと新しい図鑑ももちろんあるのですが、その植物の名前の由来や、学名の意味などを調べたいときには重宝しました。掲載されている知識が本当に幅広いので、植物の使われ方を調べたいときなどにも、牧野図鑑をよく利用していました。たとえばこの庭園にもあるヘラノキは、ヘラ状の苞葉が名前の由来で、そういう知識がしっかり書いてあったりします。

—— 図鑑はどういう印象でしたか?

研究室の本棚にありましたが、「どっこらしょ」という感じで取り出す大きさで、とにかく厚いなぁ、と(笑)。厚さは熱さにもつながりますね(笑)。牧野先生の大変な熱量を感じます。似ている植物の違いなどを調べるときは別の図鑑も利用しましたが、より深くその植物のことを知りたいとき、牧野図鑑は必須でした。

—— 牧野先生が植物を描くときは、何を使用されていたのでしょうか?

おそらく筆と墨で描かれていたのではないかと思います。先生はよく筆を使われていたようです。その筆にもこだわりがあって、細かい陰影などは「フナネズミの毛三本」といわれるほど非常に細い筆を使って描いていたようです。幕末に生まれた方ですので、やはり筆を使い慣れていたのだと思います。

—— 伊藤さんにとって、牧野先生とはどんな存在でしょうか?

難しいですね…。存在が大きすぎて。植物学を学んできたら、最初に知る偉人だと思うので、その先生の庭園で働いているというのが何か不思議な感じはします。めぐり合わせで今はこちらにいるのですが、本当に偉大な方ですね。だけど、知れば知るほど身近に感じる先生です。実績だけを見るととても偉大で、学生のころなどは雲の上の存在で手の届かないような人物なのかなと思っていたのですが、牧野先生のことを深く知っていくと、とてもチャーミングな方だったということがわかって、人間・牧野富太郎のいちファンになりました。

—— 学生たちに、すごくフランクに教えていらっしゃったとか。

実際に教えを受けた学生の声などをみると、授業や実習は楽しかったようですね。大学の授業だとなにかと大変なことも多いのですが、先生の場合、同じ植物を学ぶ仲間として接しておられたのではないかと思います。

—— 採集会では、幅広い年齢層の方々と一緒に植物採集や研究を楽しんだ、と展示室の資料に書かれていますね。

採集会は小さなお子さんも大勢参加していて、それはやはり楽しいからみんな来ていたのでしょう。私も参加してみたかったなぁと、いつも思います(笑)。

—— 庭園にお勤めになって、いまはどのようなお気持ちでお仕事をなされていますか?

とにかく牧野先生は植物が大好きだったので、ここに来られる方々にも、ぜひ植物の魅力を感じていただけたらな、という思いで解説などをしています。先生がわかりやすく書いた文章などはたくさん残っていますので、そういったことをみなさんにお伝えしていきたいと思っています。 朝ドラをきっかけに牧野先生が再注目されて、来園者の方々が増えるのは、とてもうれしいことですね。先生が植物を大好きだった、ということはドラマでも必ず描かれる部分だと思いますが、好きなことにずっとのめり込んで研究にまい進する主人公の姿を見て、植物にかぎらずとも好きなものを見つけて突き進んでいってくれるような人が、ひとりでも増えてくれるといいなと思っています。

練馬区立牧野記念庭園

住所
〒178-0063 東京都練馬区東大泉6-34-4
開園時間
午前9時~午後5時
休園日
毎週火曜日
※火曜日が祝休日にあたる場合は、その直後の祝休日でない日 年末年始(12月29日~1月3日)
入場料
無料
アクセス
西武池袋線 大泉学園駅(南口)より徒歩5分(400m)
バス停「学芸大附属前」下車、徒歩3分
公式サイト
https://www.makinoteien.jp/

練馬区立牧野記念庭園

庭園庭園

常設展示室常設展示室

④コラム「牧野図鑑」の思い出 -在野とプロとの垣根 を超えた牧野富太郎の仕事-

アニメーション研究家/日本大学藝術学部講師
津堅信之
私は「アニメーション研究家」という肩書で、主に日本のアニメの歴史を研究し、著作を発表したり大学で教えたりしている。子どもの頃から好きなアニメに関わり、趣味と実益が一致した結構な商売で、幸運なことだと思っている。
もっとも私は、アニメはもちろん芸術や歴史について正式に教えを受けたことはない。私が大学で勉強したのは生物学、その中でも動植物の生態だった。大学を出てからはその専門知識を活かせる業界で10年ほど仕事をした。それがなぜアニメ研究家などになったのか、それを告白する紙幅はないが、大学時代の学びや研究の記憶は今も鮮明だ。
学びといっても動植物の生態なので、教室よりも野外調査の時間が長かった。ある場所にどんな動植物がいて、どんな環境が維持されているのか。それを研究するため、さまざまな動植物を採集して研究室に持ち帰り、種名を調べるのである。その際、座右にあったのが「牧野日本植物図鑑」だった。

採集してきた動植物の名前を調べる際に使う事典が図鑑である。哺乳類、鳥類、魚類、昆虫類、そして植物まで各分類で図鑑はあり、ポケットサイズから大型のものまで、また専門家向けから子ども向けまで、多くの図鑑が出版されている。
そのなかでも植物では牧野日本植物図鑑、私のような生物学徒での通称「牧野図鑑」は、圧倒的な情報量と詳しさで、他の追随を許さない図鑑だった。その著者である牧野富太郎は、数多くの新種を発見した業績と相まって、今日でいうレジェンド的な存在だった。
牧野図鑑には少々苦い思い出もある。ほぼ全編が白黒の図版だったので、手元にある未知の植物を片手に図鑑のページをめくりつつ見比べても、同定(種名の確定)は難しかった。しかも牧野図鑑は広辞苑のように分厚く巨大で、ページをめくるにも体力と根気が必要だった。無言のはずの図鑑に「オレを使いこなすには君はまだ早いよ」とでも言われているようだった。のちにカラー版も発売されたが、分厚い存在感は変わらなかった。
大学卒業後の就職先も動植物調査に関わる業界だったので、所属会社はもちろん、関係する研究機関や図書館などに出向くと、しばしば書棚で牧野図鑑が鎮座しているのを見かけ、威圧を感じながらも、なんとなく安堵したのも懐かしい思い出である。

牧野富太郎は小学校を出ただけで、正式な専門教育は受けていない。独学で植物学を修めた、いわゆる「在野の研究者」である。だからこそであろうが、さまざまな公務や雑務に追われ、自分の研究をなかなか進められない「プロ研究者」を横目に、全国をくまなく歩いて調査し、膨大な植物標本を作製しつつ新種の記載に尽力した。
研究とは真理を追究するものであり、それに向かっていれば社会的な立場など関係ないはずだが、研究分野によっては、プロと在野との間に深い溝が存在することもある。かつては、在野の研究者の業績を軽んじ、ときには無視する傾向の強い分野もあった。
動植物研究では、幸いプロと在野との垣根が低く、全国でフィールドワークする在野の研究者の業績をプロ研究者がバックアップしてきた。
しかしそれも最初からそんな体制があったわけではない。在野の研究者の緻密で粘り強い実績の積み重ねがあったからである。牧野富太郎の仕事は、その範を示した代表的なものとして、今日でもその価値は失われていないだろう。

この春から、NHKの連続テレビ小説で牧野富太郎をモデルにした『らんまん』の放送が始まる。私の専門はアニメ史であって、テレビドラマを語る技能はないが、その私も、芸術や歴史を正式に勉強したことのない在野から出発した。比較するのは恐れ多いが、牧野富太郎には親近感がある。
名も知れない植物の分類に情熱を注ぎこみ、一途に野山を歩きつくして、壮大な仕事を残した牧野富太郎の生涯が朝ドラでどう描かれるのか、楽しみである。
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