練馬にゆかりの映像人の皆様にお話を伺い、練馬と映像文化の関わりを紹介する「ねりま映像人インタビュー」のダイジェストテキストです。
今回と次回のゲストは、漫画家・ちばてつや先生。
ちば先生は1962年から練馬区にお住まいになり、長年にわたり練馬区で活動されています。
生み出された作品の中には、『ハリスの旋風』『あしたのジョー』をはじめ、『おれは鉄兵』『のたり松太郎』などアニメ化された作品も数多くあります。
今回は練馬区の思い出と漫画作りについてお伺いしました。
なお、今回と次回は特別編として、動画付きでお届けします。是非、動画でもお楽しみください。
—— 最初に練馬区にお住まいになられたのは、いつごろでしょうか?
ちば:もう60年ぐらい前になりますかね。本格的に仕事をする場所を決めなくちゃいけないときに、当時の編集担当者さんがいろいろ探してくれて、「練馬にいい物件があるよ」と。後で聞いたら、その土地「練馬」には漫画家に限らず編集さんもたくさん住んでいたみたいで、わざわざ遠方に通うこともなく近所の漫画家さんのところに寄って、打ち合わせをしたり、原稿をやりとりするのに都合が良かったみたいです。
あとは手塚治虫さん【1】がいらしたってことが一番かな。あの方はいろんな出版社と仕事をしていましたからね。
うち(家)から線路を挟んだ反対側、歩いて行けるところぐらいにお住まいでした。
—— 先生の作品の中で練馬区の風景を描かれたことはありますか?
ちば:昔、『ハリスの旋風』【2】の中で、主人公の国松君が駅を降りて、商店街を歩いてくる場面があるんですが、あれは全く富士見台の駅です。昔はうちの最寄り駅が富士見台だったの(笑)。
—— 先生にとって練馬区で一番思い出のある場所はどちらですか?
ちば:昔はこの辺りも畑や田んぼがあって、広い自然がたくさん残っていました。石神井川の近くに小さな牧場があって、子どもを連れていって牛さんのお腹をなでたりなんかしていました。
石神井川も今とは違って、かわいい自然の小川でしたね。
—— 手塚先生をはじめ、いろいろな作家さんが近くにいらっしゃったそうですが、仲間内で野球をやられていたそうですね。
ちば:漫画家になったばかりの頃は、運動が好きじゃなかったんです。 漫画家は家の中に閉じこもって机に向かっているのが仕事ですから、天職だと思って喜んで仕事を始めたんだけど、2年ぐらい締め切りに追われているうちに病気になっちゃって。今でいうノイローゼですね。
その頃、『ちかいの魔球』【3】という野球漫画の話が来たんです。野球に詳しい編集さんを担当に付けるから、勉強しながら描いてくださいと。でも本当に野球を知らないから、ピッチャーマウンドを描き漏らしたり素人同然でした。それにびっくりした担当さんが真剣に野球を教えようと、グローブとボールを持ってきてキャッチボールから始めたんですよ。冬の一番寒い2月ぐらいでした。ガタガタ震えながら10分か15分ぐらいボールを投げていたら、自分の体からもうもうと湯気が出ているのがわかるわけ。担当さんも驚いてキャッチボールを止めて仕事に戻ったんだけど、今度は手が震えて描けないんですよ。その日はもう仕事にならないから寝ようと布団に入ったんです。いざ横になってみると、天井の板の目がすっきり見える。それじゃあ眠くなるまで仕事をしようと原稿用紙に向かったら、サラサラサラサラってあんなに滞っていた原稿が気持ちよく描けちゃったんですよ。(運動したことで)心と体が変わったんですね。その時はじめて運動不足が恐ろしい、ということがよくわかった。
それで私は、松本零士さん【4】とか、いろんな漫画家に声をかけて野球チームを作りました。
当時、手塚治虫さんも野球チームを持っていたので、夜中にユニフォームを着て試合を申し込みに行きました。原稿待ちの編集さん達には「この忙しい時に?帰ってくれ!」って怒られたけど、それを聞いた手塚さんが仕事場から降りてきてくれて「ちばくんどうしたの?野球の試合?いいですよ。球場決まったらまた連絡してください」と。優しいよね。
それで当時はとしまえん【5】に球場があったので、そこで手塚さんのチームと初めての試合を受けてもらいました。私の弟たちや松本さん、他の漫画家もたくさんいてアシスタントを入れて20人近くで。結果は残念ながら8対2で負けましたけど、本当にみんなも運動不足だったんでしょうね、目に見えて元気になったんですよ。当時は漫画家だけじゃなくて、いろんなジャンルの人たちがチームを作っていたので、対戦相手には事欠きませんでしたね。最近では将棋のチームなんかもライバル関係です。
—— ちば先生がお手本にした作家さんはいらっしゃいますか?
ちば:私が子どもの頃は、勉強しなくなるから漫画は読んじゃ駄目と言われていたんです。だから漫画を初めて知ったのは、中国から引き揚げてきてから。当時住んでいた千葉県の田舎の田んぼで「豆本」というちいさな漫画の本を拾ったんです。キャラメルか何かの付録で、こんな手の中に入るくらいのものなのですが。今思えば杉浦茂さん【6】の漫画だったのだと思うけどそれがとても面白くてね、道端であっという間に読みました。それで弟たちにも見せてやろうと飛んで帰って。そうして顔を寄せ合って一緒に見ていたら、夕餉の支度をしていた母親に見とがめられて、あっという間にビリビリと引き裂かれ、七輪の火の中にくべられちゃった。少し残念な漫画との出会いでしたね。そのうちに漫画の好きな友達ができて、漫画を読んだり、ちょっと描いてみたりするようになりました。その頃に読んだ『のらくろ』【7】とか『ロボット三等兵』【8】とかにも影響を受けました。本格的に漫画を描くようになってからは、出版社から漫画雑誌などを送ってくれるようになるんですが、それを読んでみると他の漫画家がみんなそれぞれ上手いんですよ。本当に、いろんな人から様々な影響を受けましたね。
—— 作品を描き始めるときは、ご自分でアイデアを着想したり、または編集者から勧められたりということがあると思いますが、どちらが多いですか?
ちば:最初は編集さんから「今、こういう話が喜ばれてますよ」とか、いろいろ制作上のヒントをもらってましたけれどもそのうちにだんだんと自分で考えるようになりました。
その当時「主人公」と言えば、みんなかっこ良くて、優等生で、運動神経抜群。勉強もできるし、友達思いだし、欠点は何もないスーパーマンのように描かれるのが一般的でした。私も最初の頃はそういう主人公を一生懸命に描いていましたけど、だんだん主人公の脇で馬鹿なことをして足を引っ張っるようなことをするキャラとか、ちょっと意地悪そうなライバルがとか、そういうのを描いているのが楽しくなっちゃって。
それで編集さんに「一度、欠点だらけの人間を主人公に描いてみたい」と話したら、ビックリして、そんな話、読者に受けるわけがない、と止められたけれど必死にお願いすると「試しに2本か3本描いてみて、駄目だったら諦めてください」っていうことで始めたのが『ハリスの旋風』だったんです。早弁はするし、いつも遅刻、宿題はやらないし、喧嘩っぱやい。そういう欠点だらけの人間なんだけど、彼なりの正義感に合わないことは絶対にしない破天荒なキャラクター設定にしたら、私自身がすごくのびのびとした気分で描けたのが良かったんでしょうね。すごく人気が出て私の作品で初めてアニメーション化もされました。
次回も引き続き、ちばてつや先生にお話を伺います。どうぞお楽しみに。
明日の勇気につながる1作ちばてつやさんのおススメ!
『生きる』
(1952年/日本/監督:黒澤明/脚本:黒澤明、橋本忍、小國英雄/出演:志村喬、小田切みき、藤原釜足、日守新一、金子信雄 ほか)
仕事への情熱を忘れ、無気力な日々を送っていた市役所の市民課長・渡辺勘治は、ある日胃癌で余命幾ばくもないと知る。人生に絶望する渡辺だったが、ある女性との出会いをきっかけに、人間が生きる意味を考え始める…。
ちば:病気でもう寿命がいくつっていう、それまでいい加減に生きていた人が、自分の命が限られたことになった途端に、真剣に何かやり出すでしょ。あれを見て、「人間ってみんなそうなんだよな」と。あれは本当に素晴らしい作品だった。私も影響を受けましたね。