
INDEX
①昭和最大の原作者・梶原一騎とは
梶原一騎――物語に人生を賭けた、昭和最大の原作者
梶原一騎(本名・高森朝樹)【1】は1936年、旧東京市の浅草に生まれた。少年時代は喧嘩に明け暮れ、戦後の混迷期には万引きや補導を繰り返し、中学相当の3年間は教護院「東京都立誠明学園」に送られてしまう。この頃に恋仲となった女性の姓「梶原」をのちに筆名に用いるようになる。飲食店の見習いをしながら小説の投稿を始め、17歳で「梶原一騎」名義のボクシング小説『勝利のかげに』が雑誌「少年画報」で入選し、少年小説家としてデビューを果たすのであった。
1959年に「週刊少年マガジン」と「週刊少年サンデー」が創刊されると、少年マンガの時代が到来。少年誌の主流は急速に小説からマンガへと移っていく。物語の語り手の座は、紙面から少年小説を奪い取るように、マンガへと移行しつつあった。
東京中日スポーツで連載した『力道山物語』が好評を博した梶原は、「週刊少年マガジン」でプロレスマンガ
『チャンピオン太』【2】(作画:吉田竜夫)の原作を担当することになる。本作は人気も高く、テレビドラマ化もされた。このように梶原もマンガ原作に足を踏み出してはいたものの、小説家としての矜持を持つ彼にしてみれば、「男子一生の仕事とするに足るとは思っていない」(光文社『サンデーとマガジン 創刊と死闘の15年』より)と考えていた。
時を同じくして1964年、梶原は後藤篤子と結婚。梶原邸の一般公開を企画した長男・城など、篤子とのあいだに二女三男をもうける。のち篤子とは離縁するが、晩年に復縁する。
結婚して練馬区大泉に居を構え、一家の大黒柱として機するものもあっただろう。
そんな梶原に転機が訪れる。「週刊少年マガジン」編集長の内田勝、副編集長の宮原照夫が梶原のもとを訪問し、「梶原さん、少年マガジンの佐藤紅緑になってください」(同上)と口説いたという。佐藤紅緑とは、戦前に「少年小説の第一人者」と呼ばれた作家である。代表作『あゝ玉杯に花うけて』は戦前に講談社の少年誌「少年倶楽部」の全盛期を築いた作品であり、当然、梶原もその存在を知っていた。その“現代版”として、少年マンガ誌という新しい媒体で少年の魂を描いてほしい。編集者のその言葉は、梶原の中に炎を燃え上がらせた。彼はマンガ原作を、みずからの文学の延長線上にある表現として受け止め、本格的に力を注いでいく。
そして1966年、
『巨人の星』※1(作画・川崎のぼる)が誕生した。努力、根性、血と汗。極端なまでの精神主義は、戦後日本の復興を支えた過剰なエネルギーと共振した。昭和という時代が、梶原一騎という語り手を必要としていたのだ。
その後も
『柔道一直線』【3】『あしたのジョー』※2『タイガーマスク』※3――次々とヒット作を生み出し、梶原は少年マンガの黄金時代を築いた。『巨人の星』を「週刊少年マガジン」に連載中には、同誌に別名義「高森朝雄」で『あしたのジョー』を同時掲載するほどの売れっ子ぶりだった。
梶原作品の多くはスポーツを題材としたが、それは単なる勝敗のドラマではない。努力型の主人公と、天才型のライバル。二つの生き方の対比を軸に、努力と死闘、栄光と挫折を通して主人公は精神的な成熟へと至る。スポーツを通じて人間の成長を描ききったその構成は、マンガというジャンルに「ビルドゥングス・ロマン(成長小説)」の地平を切り拓いたといえる。
1970年代に入ると、恋愛劇
『愛と誠』※4などで新境地を開き、映画やテレビドラマの世界にも進出。自らの制作会社・梶原プロを設立し、時代の寵児として名を馳せた。
だが、激しい気性と妥協を嫌う性格は、やがてトラブルを呼び寄せる。暴力事件や訴訟が相次ぎ、1983年には銀座で講談社の編集者とトラブルを起こして逮捕。栄光と転落のあいだを、彼は激しく揺れ動いた。
晩年、病に体を蝕まれた梶原は、それでも筆を握り続けた。絶筆となった自伝的作品
『男の星座』※5には、自身の矜持と信念、そして苦悩を刻み込んだ。
1987年、壊死性膵炎のため急逝。享年50。その生涯は、まるで彼の描く物語そのもののようだった。極限まで生き、燃え尽きるようにして幕を閉じた。
梶原一騎が描いたのは、勝敗の果てにある「人間の魂の輝き」だった。人が魂を燃やす刹那、まばゆいばかりの光を放ち、そこには深い影を生む。その陰影は世代を超えて、いまもなお読む者の心を惹きつけてやまない。
②練馬・大泉の梶原一騎邸 見学レポート
梶原一騎の“聖域”が開かれた日――練馬・大泉の豪邸、最初で最後の一般公開

『あしたのジョー』や『巨人の星』など、マンガ史に燦然と輝く名作を次々に生み出した原作者・梶原一騎が1987年にこの世を去って早38年。2025年10月、東京・練馬区大泉にある自宅が没後初めて一般公開された。今回の見学は「最初で最後」とされる特別な機会だった。

梶原がこの地に居を構えたのは1964年、28歳のとき。やがて『巨人の星』を大ヒットさせたあと、170坪の敷地に建てられた邸宅は、当時のマンガ原作者としては破格のスケールを誇る。往時、この豪邸の玄関前には、愛車のベンツが停まっていたという。その玄関のすぐそばには「吾唯足るを知る」と刻まれた手水鉢――京都・龍安寺の「知足のつくばい」を模したものが置かれていた。豪奢とストイシズム。対照的な二つの要素が一つの空間に同居しているところに、梶原一騎という作家の多面性が象徴されているようだった。

観音開きの玄関扉は当時のまま。ホールには微笑む梶原の特大写真パネルが飾られ、いまもなお訪問者を迎える。梶原一騎の長男・高森城氏によると、生前この玄関を使って出入りできたのは梶原本人だけだったという。梶原亡き後もしばらく家族は勝手口を使い続けていたが、「玄関を使うな」と本人から言われたことは一度もなかった。その“暗黙の聖域”ぶりが印象的だ。

玄関ホールの右手には応接室がある。かつて編集者たちが原稿を待たされたであろう部屋であり、壁一面の本棚には梶原の著作が並ぶ。また、この部屋にはバーカウンターが設えられている。妻・篤子氏が酒をふるまうこともあり、マンガ家の
ちばてつや【4】氏も「このカウンターでお酒をいただいた」と思い出を語っている。

応接室から続く書斎には、代表作『愛と誠』『男の星座』の自筆原稿が展示されていた。書斎の椅子には極真会館の道着と黒帯が掛けられており、
『空手バカ一代』※6のファンには垂涎の代物である。この書斎の書棚には化粧箱入の文学作品が陳列されており、梶原作品に通底する格調高いビルドゥングスロマンの香りを感じさせた。

書棚に納められた三菱鉛筆の3Bは、まるでデッサン画に用いるかのように、芯が細く削られている。執筆が中断することを嫌った梶原は、途中で削る必要がないよう、何本もまとめて用意していたという。この鉛筆は、病院へ向かう直前に「戻ったらすぐ書けるように」と削られたもの。実際、病床にも原稿用紙と筆を持ち込み、亡くなる直前まで絶筆となった『男の星座』を執筆していたそうだ。
ちなみに書棚の一角には、東京地方裁判所の刑事部からの特別送達(おもに訴状や判決文などを届ける郵便物)が飾られており、梶原の生涯に起きたアクシデントについても決して隠そうとはしていない。

和室は6畳と8畳を襖で仕切る造り。襖を外して30人規模の宴会を催したこともあったようで、まるで政治家の邸宅のような広さだ。廊下を抜けると、洋風のダイニングルームが広がる。ここにもバーカウンターがあり、棚にはずらりと「I.W.ハーパー」のボトルが並んでいる。ハーパーのソーダ割りにアジフライを添えた「梶原セット」が彼の定番だったという。

この家では、これまでも関係者たちが故人を偲び集うことはあったが、一般公開は今回が初めて。高森城氏は「じつは取り壊すつもりなので、一般公開は今回が最初で最後となります。少しでも多くの方に見てもらい、その思い出として記憶にとどめてもらえれば」と企画意図を語ってくれた。

SNSでの告知後、想定を超える反響があり、急きょ予約制に変更した。それでも当日は見学者が途切れることなく訪れ、各部屋に飾られた著作や記念品、調度品の数々に目を輝かせていたのが印象的であった。没後38年を経てもなお、梶原一騎という存在が人々の心に強く刻まれていることを実感させられた。
すべての作品に信念と熱を注ぎ込み、昭和の時代に日本のマンガに革命を起こした男の“聖域”が、静かに幕を閉じようとしている。
③梶原一騎が生み出した主要作品
作画:川崎のぼる。講談社「週刊少年マガジン」1966年19号〜1971年3号連載。
かつてプロ野球・巨人軍(読売ジャイアンツ)の選手だった父・星一徹に英才教育をされた主人公・星飛雄馬が巨人に入団し、大リーグボールを武器に花形満や左門豊作などのライバルたちと戦う。実在の野球選手が実名で登場するのが特徴。いわゆる「スポ根マンガ」の草分け的な存在として位置づけられている。1968年に日本テレビ系列でアニメ化された(TVシリーズ)。
高森朝雄名義で執筆。作画:ちばてつや。講談社「週刊少年マガジン」1968年1号〜1973年21号連載。
元ボクサーの丹下段平にボクシングの才能を見出された矢吹丈は、少年鑑別所で宿命のライバル・力石徹と出会う。やがて二人はプロのリングで雌雄を決するが、力石は無理な減量がたたり、試合後に息を引き取る。苦悩の末に力石の死を乗り越えたジョーは、世界チャンピオンを目指して戦うことに。力石の死亡時には、作家の寺山修司の発案により講談社の講堂で葬儀が行われるなど社会現象となる。1970年に『あしたのジョー』、1980年に『あしたのジョー2』と、二度にわたってTVシリーズのアニメ化がされた。
作画:辻なおき。講談社「ぼくら」1968年1月号〜1969年10月号、講談社「ぼくらマガジン」1970年1号〜1971年23号、講談社「週刊少年マガジン」1971年26号〜53号連載。
孤児院「ちびっこハウス」で育った伊達直人は、悪役レスラー養成機関「虎の穴」での過酷な特訓に耐え、覆面レスラー「タイガーマスク」となる。のちに組織を裏切って正統派レスラーへ転身すると、「虎の穴」からの刺客と死闘を繰り広げることに。「ぼくら」休刊にともない掲載誌を移籍するが、そのタイミングで日本テレビ系列でTVシリーズのアニメ化。のち1980年には梶原の原作で続編『タイガーマスク二世』(作画:宮田淳一)が少年画報社「月刊少年ポピー」にて連載されると同時に、テレビ朝日系列でTVシリーズのアニメ化がされ、そのタイアップ企画として新日本プロレスに「タイガーマスク(佐山聡)」が登場する。
作画:つのだじろう(第1部〜第3部)、影丸譲也(第4部〜第6部)。講談社「週刊少年マガジン」1971年22号〜1977年52号連載。
空手家・大山倍達の半生を描いた伝記的作品だが、梶原による創作の要素も多い。前半(第1部〜第3部)は大山を主人公として、直接打撃制による組手試合を提唱する大山が国内外で死闘を演じる。極真会館を創設して以降の後半(第4部〜第6部)では、大山の弟子たちが活躍する実録カラテものとなる。1973年にはNET(現在のテレビ朝日)系列でTVシリーズのアニメ化がされた。
作画:ながやす巧。講談社「週刊少年マガジン」1973年3・4号〜1976年39号連載。
主人公の太賀誠は幼少時に早乙女愛の命を救うが、眉間に傷が残り、その負い目から凶暴な不良少年に。喧嘩に明け暮れていたが、早乙女家が身元引受人となり、愛は誠を更生させようと尽力する。愛を慕う優等生・岩清水弘の「君のためなら死ねる」のセリフは一世を風靡した。松竹で1974年『愛と誠』(山根成之監督)、1975年『続・愛と誠』(山根成之監督)、1976年『愛と誠・完結編』(南部英夫監督)と実写映画が3本つくられた。のち2012年にも角川映画で『愛と誠』(三池崇史監督)が制作される。
作画:原田久仁信。日本文芸社「週刊漫画ゴラク」1985年5月24日号〜1987年2月13日号連載。
梶原の自伝的作品にして遺作。主人公・梶一太の生い立ちから劇画原作を手掛ける経緯などが語られる。作中のナレーションから、大山倍達との関係について語られる予定だったと推測されるが、梶原の死によって未完となった。