高森城
株式会社梶原プロダクツ代表取締役
2025年私は、毎日のように掃除に追われていた。父
梶原一騎【1】がその制作活動の拠点としていた軍艦御殿を、今後どうするか悩みながらの時間だった。父が亡くなったのは1987年1月。既に40年近い年月が経っているとはいえ、片づける品物毎にたくさんの思い出と、父の香りを感じていた。
父が練馬に住むようになるのは1965年。戸建てを購入する際、多くの尊敬する作家(小説家)が活動していた「文学の地」、練馬を選び、大泉学園町に12坪程度の平屋を購入した。
この時期の貧困エピソードは父母にとって楽しい思い出だったようで、二人で楽しそうに話してくれることもあったが、それも短いもので、1966年5月には
「巨人の星」【2】、1967年には
「タイガーマスク」【3】、高森朝雄のペンネームで
「あしたのジョー」【4】の連載も開始。1970年西大泉の軍艦御殿に移り住む。
ジョーがドヤ街で暴れまわっていたころが、私の生まれた時と重なっている。
執筆には子供の泣き声が邪魔だったらしい。このころには当時の霞町に事務所を設け、大泉には週末だけしか戻らないようになる。母篤子と1971年離婚。それ以降は数週間に一度寄る程度になり、実質的に練馬からは離れた。
この家を片付けていて、思い出も、それを形作る「もの」も、明らかに存在を感じられない空白の時間。練馬を離れ逮捕に至る約12年間は「狂気の時代」と言われる。
軍艦御殿に父が再び戻るのは1984年。それも母篤子と一緒に。
余命2時間という宣告を受けた父。離婚中ではあったがその父の戦いを病院で支え続けた母。父がその戦いに勝利したのち、家族全員で再びこの地での生活が始まった。
練馬に戻った父は、一言でいうと家族の人であった。ガキどもに借金は残せないと言って、借金も全て返した。元々イメージと違って節約家であったが、普段の生活はつつましいものであったと思う。退院後しばらくやめていたお酒は、健康のためと言って養命酒から始まり、いろいろと言い訳をしながらビールに代わり、その量も1本だったものがいつの間にか1日3本へと増えていった。これには母が小言を言うので、散歩と称して一緒に居酒屋に行ったこともある。母に逆らえない普通の家庭の夫婦の姿がそこにはあった。
「吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けん」
父の辞世の句である。受け止め方や解釈はいろいろとあるのだろう。ただ家族として思うのは、少なくとも父は自らの命を珠のように慈しんだ。練馬での家族との3年がなければ、きっと慈しむこともなく、太く短く生きたであろう。その父が、自分の命を大切に思ったのだ。
父の象徴ともいえる軍艦御殿。片づけをして改めて思った。形あるものは崩れるしかない。壁も崩れ、華やかだった装飾も色あせていく。
病後歩けるようにならないかもと言われた父が、私と弟の肩につかまり何往復もした廊下。私を怒鳴りつけた後、城悪かったなと言いながら、鶏ガラからスープを作ってラーメンを振舞ってくれた台所。
壊したくない思い出もたくさんあるが、無理をして朽ちていく様を世間にさらしてしまうより、多くの人の記憶にとどめていただき、形はなくしてしまった方が潔い。「珠と砕けん」といった父らしい。そして私は軍艦御殿の整理と、一般公開を実施することを決意した。
父の魂のこもった原稿も、私が所蔵するより、次代の漫画の世界を担う方たちに触れて頂きたい。そう考え、公立校で初めて漫画学科を設置した熊本県立高森高校へ、寄贈させていただくこととした。父の原稿を今の高校生が漫画にし、それによって梶原一騎の魂を感じた若い漫画家が、また次の世代に魂をつないでいってくれたら、父も喜んでくれるだろう。
練馬から梶原一騎の形は消えるが、この地に梶原一騎が住み、この地から「巨人の星」「あしたのジョー」「タイガーマスク」が生まれたという事実はきえることはない。