—— 日大芸術学部【1】を選ばれましたが、それ以前から映画製作に興味があったのでしょうか?
長谷川:子どもの頃から怪獣がとにかく好きだったんです。ちょうど8ミリ映画ブームで、小学6年生くらいから仮面ライダーもどきのようなものを撮ったりしてました。脚本なんか何もなくて、それっぽい服を着て、ただ戦ってるみたいな。
中学3年生の時、体育の授業中に頭から倒れて1か月ぐらい入院したんです。受験の追い込みの時期で、どうしようかな?と思っているときに、お見舞いに来てくれた親戚が日藝に入ってたんです。
実を言うと、日藝という存在を知らなくて、「映画専門の唯一の大学だよ」みたいな話を聞いて、予定していた地元の県立高校への進学をやめて、日大の付属高校を受けて入学できました。そこから日藝に行くことを目標に3年間高校生活を送りました。
あの時頭を打ってなかったら、恐らく熱海市役所に勤めていて、怪獣映画祭【2】をやってる可能性が高いですね(笑)。人生の転機っていうのはいくつかあるんだろうけど、あれは間違いなく大きな人生の転機でした。
—— 日本大学芸術学部、映画学科監督コースに進学されましたが、大学で印象に残っていることはありますか?
長谷川:当時の学校は「映画は芸術だ」みたいな空気があって、同じ大学の監督コースの人たちも、ゴダールとかブニュエルとかいうわけですよ。でもやっぱり日本中から集まって来ているので、特撮好きな人とも出会うんです。その中に、同級生で同じ監督コースの川崎郷太【3】がいて、一緒に8ミリを作ったり、卒業制作に至るまでの課題を手伝ったり、手伝ってもらったりしていました。
—— 脚本書きになろうと思ったのは、どのようなきっかけですか?
長谷川:大学の時は全然なかったです。脚本を練るより、映像を撮りたい気持ちが先走ってました。
でもちょうどその時、一期上の先輩に野沢尚さん【4】がいたんですよ。一緒にNHKのアルバイトに行ったり、仲良くしてもらってました。野沢さんの卒業制作は吸血鬼モノのすごく面白いやつで、やはりシナリオがよくできるなと思ったんです。それで、野沢さんが作ったシナリオや自主映画を見せてもらったりして、「やはりシナリオって大事なんだな」と、その時にすごく思いました。
—— 卒業後『朽ちた手押し車』【5】という作品で助監督になられました。
長谷川:助監督は普通3人なんですけど、その時は5人いたのかな?一番下のフィフスでした。つらかったですね。右も左もわからないし、小道具さんとかに怒られちゃって、怖くて泣きそうでした。とにかく怖くて「美術部は嫌だな」と思ってたんですけど、その後、美術部になるんですよ(笑)。
—— なぜ美術部になったのでしょう?
長谷川:『太陽にほえろ!』【6】の助監督をやってる頃に、たまたま小道具さんが辞めることになって、その方に美術会社を紹介されたんです。美術部になったら、今度は助監督が怖くて怖くて、どこ行っても怒られる。脚本家になったら怒られないかと思ったら、やはり現場からすごく言われて、どこに行っても怒られちゃう(笑)。
美術部に入って、最初は小道具を担当しました。役者さんに靴やバッグとか、劇中で使うものを渡したり、それを(シーンが)繋がるように管理したり。小道具を5年ぐらいやった後、装飾を5年ぐらいやりました。装飾は、シナリオの内容に合わせて、作品に登場する場所や部屋を飾るんです。その時は自分のアイデアも出しながら「こういう設定だったら、こういう部屋に住んでるだろう」とか、打ち合わせしながら飾るというのを延々とやってました。小道具と装飾合わせて10年間、美術部現場の世界にいて、青春もの、麻雀もの、ホラーものなどジャンルを問わず、いろんな作品の仕事をしました。
必要なものを用意するために脚本をとにかく読み込んで読み込んで、そこに何も書かれてなくても、用意しなければいけない。
そうしているうちに、知らず知らず「脚本」がしみついたんでしょうね。美術部の10年間、とにかくひたすら現場で脚本を読み込んだということが大きかったんだと思います。
—— 1997年2月放送の『ウルトラマンティガ』【7】第22話「霧が来る」【8】で脚本家デビューされました。 これはどのようなきっかけだったのですか?
長谷川:『ティガ』には最初装飾で入ったのですが、すごくしっかりした脚本で、回が進むごとに「これはものすごいウルトラマンに関わったな」と熱が上がって気持ちが収まらなくなってきたんです。それで勝手にシナリオを書いてみて、移動中のロケバスの中で監督や笈田雅人プロデューサー【9】に読んでもらったら反応が良かったんです。その後、『ティガ』が好評で、放送期間が延長されることになり、変化球も入れたいということで、笈田さんから「長谷川さん、書いてみませんか」とお声がけいただきました。
その頃はまだ装飾もやっていたので、「霧が来る」の現場では霧(スモーク)も焚いていました。でも風が舞って上手く流れなくて、キャメラマンに「右だ!左だ!」って怒られてました(笑)。
—— シリーズ半ばでデビューして7本という本数はものすごく多いと思います。
長谷川:美術を辞めたんです。「霧が来る」を書いた時は、まだ二足の草鞋でしたが、「吸血都市」(33話)【10】を書いていた時に、現場の仲間から「長谷川さん、迷惑だから決めてください」と言われたんです。愛の鞭なんですよ。そういう言い方で背中を押してくれたんです。決心して辞めたので「これはもう頑張んなきゃ!」と、プロットをいっぱい書きました。それが採用に繋がったんです。本当に皆さんのおかげで、無事脚本家デビューができました。
—— 『ティガ』に続いて『ウルトラマンダイナ』【11】を書くことになりました。最初はコンペだったそうですね。
長谷川:そうです。あそこで選んでもらえなかったら、どうなったかわからないですね。そこで小中和哉監督【12】と出会えて、プロットも手直しして、1,2話を書きました。
企画書には「宇宙をテーマにする」と書いてあり、スーパーGUTS【13】が割と体育系王道集団というのも企画段階で決まっていたので、『ティガ』との差別化も考え、それに合わせて真っすぐ突っ走っていくような勢いのある話にしようと。『ティガ』のダイゴ【14】は透明感がある非常に知的で優しい雰囲気だったので、アスカ・シン【15】はその真逆のキャラにしました。
—— 最終3部作を書くにあたって、どういう締めくくりにしたかったのでしょうか?
長谷川:小中監督が、「『2001年宇宙の旅』【16】の人間の進化の先に、ウルトラマンがあるんじゃないか?」と1,2話の頃から話されていて、『ダイナ』の最後も「アスカは、次の次元を目指して、前に飛んでいくんだ」というイメージも聞いていたので、ああいう終わり方は最初からなんとなく決めていたんです。でも当時は彼が死んだように見えた視聴者もいて、「ウルトラマン、死んじゃったよ」みたいな反響もありましたね。そういうつもりはなかったんですけど。
その後、『ゼロ』の映画【17】で生存確認されて、『ウルトラマンサーガ』【18】ではまたアスカを描かせてもらえました。『ダイナ』の続編っぽい感じでスーパーGUTSも再登場させてもらって、ありがたかったですね。
—— 『ダイナ』という作品を通して「諦めない心」が描かれており、その後の長谷川さん担当作品でもメッセージの中核に持ってきていらっしゃるように思います。
長谷川:僕は、結構諦めかけちゃうんですよ。だけど、諦めずにやってきたからここまで来られたという思いもあるし、諦めた段階で終わると思うんです。だから、「まだいけるんじゃないか」と。これは実は美術時代に培われたものだと思っています。
モノを揃えるときに「これ揃わないや」って、簡単に諦めちゃいけない。探せば見つかるんです。だから、「本当にお前、全部ちゃんと探したか?」って自分自身に言い聞かせて、ギリギリまで頑張りました。「現場を止めちゃいけない」、「今持っていけば役者さんの気持ちも乗る」とか、裏方だけど、表方だという気持ちでやっていました。後輩にも「諦めるな」と言っていたし、その時からの思いですね。
—— 本日はありがとうございました。一言ご挨拶をいただけますか
長谷川:振り返ってみると、人生の転機というのはいくつかあるんだなと。間違うこともあるけれど、結果として人生は一回なので、それを後悔せず、前を向いていくしかないんだなと思います。
それから、とにかく人との出会いが大事ですね。いい人たちと出会えたことが本当に幸せで、そういうことからも何か力を与えられたなと、自分自身も思っています。
明日の勇気につながる1作長谷川圭一さんのおススメ!
『ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち』
(1998年/日本/監督:小中和哉/脚本:長谷川圭一/出演:つるの剛士、木之元亮、山田まりや、斉藤りさ、布川敏和、加瀬尊朗、小野寺丈 ほか)
人類殲滅を企むモネラ星人に立ち向かうも、危機に陥るウルトラマンダイナ。その時、ダイナを助けようとする世界中の人々から放たれた光から、ウルトラマンティガが現れた!
長谷川:『ダイナ』は自分の中で思い入れが強くて、特に劇場版で初めてお客さんの生の反応を体験できたのはすごく大きかったですね。
子どもたちがいっぱい来てくれて、でも集中力が続かないから上映中にガヤガヤ喋って、アスカとイルマ隊長の会話とか聞こえないんですけど、ダイナが死ぬ場面で「シーン」となるんですよ。 子どもたちにもそれがわかるんですよね。 だから子どもたちにああいう作品を届けられたっていうことを実感できたし、自分自身にも「諦めない」とか「勇気」をもらった作品です。
いろんなサブスクでも見られますので、ぜひご覧いただければと思います。